2013/03/04

7 本拠地と遠征地

私は失業したも同然だった。実際には少しずつセッションは入っていた。でも保証された定収入はなくなってしまった。私が慣れ親しみ始めたライフスタイルは、瞬く間に消え去ってしまったのだった。

それまでの稼ぎが多かったというわけではなかった。しかし出費は車の維持費ぐらいしかなかった。私は寝るのも食べるのも、両親のところかガールフレンドの実家で済ませていたし、相変わらず自宅で家賃無しの生活をしていたからだ。だから未明まで大量のアルコールを飲み続けるという習慣が、新しいライフスタイルの中心になっていったのだった。

厄介なことに、私はトップ・ランクのバーにいた女性、ロス・ウールフォードと婚約していた。そのことを私の両親の気に入らなかった。両親は私が完全に気がおかしくなったと思っていた。私は20歳で、友だちは皆結婚していたから、その仲間に入ることは自然なことに思えたのだ。

父は私の結婚計画に関して問題となるだろう事柄を2〜3指摘した。

「おまえは今無職だ。仕事を得る予定もない。住む所も無ければ金もない。」

私はその言葉に反抗し、彼と同じくらいの勢いで彼を見返した。

「あぁ、言いたいことはわかったから。でもだからってどうして結婚しちゃいけないのか、納得できる理由を教えてよ。」

彼は憤慨したように頭を振ったが、当時私はそれは彼が負けを認めた仕草だと解釈していた。後年その独特な憤慨したように頭を振る動作は、言葉ではなく態度で次のように言っているんだと解釈し直した。「お前には失望したぞ、この酔っぱらいの、未熟者の、愚かな役立たずが。」

結婚するにはとにかく定職に就く必要があると悟った私は、仕事を求めてメロディー・メーカー誌の裏面にある案内広告に目を通してみた。そこにはオルガン奏者求むという広告がたくさんあったので、どんな仕事か確かめようと午前中いっぱいを費やして電話をかけてみた。

ほとんどが結成ホヤホヤのバンドだった;そしてどれもが大きなレコード契約を“約束”していた。

「やあ、オレたちはパフュームド・スーリッジ(訳者注:“香りの良い下水道”の意)っていうんだ。音楽的にはヴァニラ・ファッジ(訳者注:1966年デビューのアメリカのバンド)とシラ・ブラック(訳者注:イギリスの国民的人気歌手)をヘヴィーに混ぜ合わせた感じだ。メジャーなレコード会社はどこも、オレたちと契約したがってるんだぜ。」
「結成してどのくらいなんだい?」
「1週間だ。」

もう探すのを止めようと思ったとき、こんな素っ気ない広告が目に入った:

求む。有能なオルガン奏者。楽譜が読めることが条件。週40ポンド。
 
すぐにこれは誤植だと思った。週あたりわずか25ポンドぐらいが平均的な賃金だったから、ミュージシャンがそんな大金を稼げるはずがなかった。いや、そう私は思っていたのだ。

電話をかけるとピーター・シルズという男が出た。彼はギタリストでバンドを結成しようとしているところだとわかった。彼は多くを語らなかったが、専属用のバンドはすでに出来上がっていて、後はオルガン奏者のポジションを埋めるだけということがわかった。メンバーになった1人がオルガンも提供してくれていた。音楽は当時のヒット・ソングのカバーがメインで、スタンダード曲もいくつか含まれるだろうとのことだった。

オーディションはエセックス州イルフォードのグリーン・ゲイト・パブで、正午から行なわれた。

12時15分前に到着した私は、大きなダンスホールの中で他の30人ほどの男達と腰を下ろしていた。一人ずつ舞台に呼ばれると、ドラマー、ベース奏者、ギタリスト、シンガーからなるバンドと演奏した。彼らは素晴らしいミュージシャンたちで、とても勢いのあるサウンドだった。私の出番は25番目くらいだったので、バーに行って私も勢いをつけようと思った。

ついに名前が呼ばれ舞台に上がった。オルガンは新しいローリーであった。私の好きなメーカーではなかったが、それでも便利ではあった。彼らは最新のポップ・ミュージックを提示してきて一緒に演奏した。次にビートルズの“ノルウェーの森”を演奏すると、ピーターが言った。チャドウェル・ヒースにあるグレイハウンド・パブで来週月曜からだ、もちろん週40ポンドだと。

私たちはウイークデーの夜と日曜のランチタイムに働いた。それはとても楽しかった。毎晩超満員で、バンドはプロ意識が高くとても有名になった。しかし両親の家からイルフォードまで毎日移動するのはそれほど苦ではなかったが、ウイークエンドにレディングでロスを拾うとなると、1日で数百マイルという周遊旅行になってしまうこととなった。

私の雇い主はボブ・ホイートリーという人物だった。彼はとても頭が良く洞察力のある男で、 人々がウエスト・エンド並のお金を払わずに質の高いエンターテインメントを見たがっていることを知っていた。彼はまた、ロンドン東部やエセックス州には、1年の大半を使われないまま眠っている巨大な催し物スペースを持つパブが、数多くあることも知っていた。この地域最大のビール会社はチャーリントン社で、彼は催し物会場やダンスホールを買収すると、そこでこのビール会社と取引をし、それぞれの場所に専属バンドを置いた。そこでは入場料は無料だったが、すべての酒の値段が数ペンス高く設定されていたのだ。

1年もしないうちにそうしたチャーリントン・パブはホイートリー・タヴァーンという名前に変わった。

ボブは“現場主義”的な人物で、終了時簡を見計らって毎晩パブの仕事ぶりを見て回った。我らがバンド、スピニング・ホイールを擁するチャドウェル・ヒースのグレイハウンドは、その地域では最も有名なパブになり、私はそこでの1分1秒を楽しんだのだった。

近くのイルフォードにあるクラレンドン通りにフラットを見つけ契約し、私はロスとレディングの教会で結婚式を挙げる直前の1970年3月末に、そこに引っ越すことにした。

セッションも数が増え始めた。私は「ジミー・ヤング・ショー」といった番組など、BBCのラジオ・ワンの仕事を数多くやるようになった。トニー・ヴィスコンティが私をストローブスに紹介してくれて、アルバム「ドラゴンフライ」でオルガンを弾くと、彼らはラジオ・ツー(Radio Two)の「フォーク・オン・フライデー」という番組に出演する時に、一緒に出ないかと誘ってくれたのだった。

2月後半、私は彼らから、バンドに専任で参加して、ツアーにも出てくれないかと誘われた。

当時彼らはまだ生粋のフォーク・バンドだった。バンド創立者のデイヴ・カズンズとトニー・フーバー2人がアコースティック・ギター、アル中のスコットランド人のダブル・ベース、そして1人の女性チェロ奏者がいた。

彼らはフォーク・クラブ界隈ではとても人気があった。私自身は特にフォーク・ミュージックが好きというわけではなかったにもかかわらず、デイヴ・カズンズの書く曲は実に楽しく演奏できたし、彼の詞はまさに傑出していた。やがてデイヴと私は固い友情で結ばれるようになり、ついにはストローブスを最初のフォーク・ロックバンドにするというアイデアを話し合うまでになった。

現実にはストローブスに加入することは生易しいことではなかった。まず第一に、私はボブ・ホイートリーと2年契約を結んでいたし、第二にストローブスは週20ポンドしか支払えなかったからだ。しかし大きな特典が付いてきた。彼らは私が結婚の1週間後から仕事をしてくれるよう言ってきたのだが、それはパリで1週間彼らと演奏するというものだったのだ。それならロスを仕事でハネムーンに連れて行ける。それで決まりだった。私はボブ・ホイートリーと彼の専用オフィスで会う約束を取り付けた。

私が事情を説明し、契約解除まで1ヶ月の猶予ではどうかと申し出ると、彼はこう言った。「つまり君は、このストローブスというフォーク・バンドに参加したいので、給料が大幅に下がるのを覚悟で我々の契約を破棄したいと、 そう言ってるのかね?」

私はうなずいた。

「ストローブスのマネージメント担当の名前は?」ボブが聞いた。「それと電話番号も知りたい。」

それらを教えると、彼はすぐにその番号に電話し、ストローブスのマネージャーであるマイク・ドーランと話を始めた。

私は会話のこちら側しか聞くことができなかったが、ボブが「それはそうかもしれんが、しかし私との契約がまだ1年半も残っているのは事実なんですよ。」と言い続けているので、私が思うようには事は進んでいないと感じていた。

最後に彼は受話器を元に戻した。

「どうして誰かが、ましてやこれから結婚しようっていう人間が、安定した職を蹴って無名のフォーク・バンドで半分の給料でやっていこうなんて思うんだか、私には理解できない。君はフォーク・ミュージックが好きなのかね?」
「本当の事を言いますと、それほど好きではありません。」
「そりゃ面白い。それなら2分やるから、この契約の破棄を私に納得させてみてくれ。始め。」

私は全力を尽くして彼に説明した。私が手伝う事でデイヴ・カズンズはストローブスのイメージをフォーク・クラブにいるようなものから、最初のフォーク・ロック・バンドへと変えたいと思っている、そして私にとっても、この変革に自分が大きな役割を担っていると感じていると。

ボブは机ごしに私を見た。
「イカレてる。」彼はそう言うと契約書を引き裂いた。
「4月一杯はスピニング・ホイールで仕事をすること。それなら彼らは代わりを見つけられるだろう。あぁ幸運を祈るよ。君にはきっと幸運が必要だろうからな。」


その後3年間ボブ・ホイートリーとは会うことはなかった。私がウェスト・ハムのサッカー選手のためにロンドンのグローヴナーハウスで開かれた謝恩夕食会に出席していた時のこと、会の終り近くになって、遅くなって駆けつけた偉大なるイングランド代表の前キャプテンであるボビー・ムーアが、私のテーブルまで来てくれた。その頃はもう私が大のサッカーファンであることは有名になっていて、サッカー界にたくさんの友人がいたのだが、ボビーもその1人だったのだ。

私は自慢げにボビーをテーブルの客人達に紹介した。その後彼は今度は私が彼の席に来てくれないかと言った。そこには私に会いたがっているイエスのファンがいるとのことだった。

当時すでにイエスは2枚のアルバムで大成功をおさめており、私も最初のソロアルバム「ヘンリー八世と六人の妻」がヒットしていた。私は頻繁に音楽雑誌の表紙を飾り、プログレッシヴ・ロックの最前線に躍り出たところだった。

ボビーのテーブルに行くと、テーブルの客人1人1人が立ち上がり、私は彼らに紹介された。最後に真正面にいて背中を見せていた男性が、満面の笑みで振り返り立ち上がった。それがボブ・ホリートリーだった。

彼は私の脇に立ち、腕を私の腰に回すとテーブルの客人に向かって話し出した。

「リック、」彼は言った。「君はこの3年間、1人で本当に良くやったなぁ。何枚のレコードを売ったんだい?」
「正確には良く分からないけど、」私は答えた。「でもたぶん500万枚くらいだと思う。」
「それから最近の観客の規模はどのくらいだね?」

こうした質問が何のために行なわれているのか掴みかねながら、とにかく私はそれに答えた。
 
「そうだな、アメリカだと一晩で2万人ぐらいかな。」

ボブはテーブルでちょっと戸惑ったような様子をしていた人々に目を向けた。

「皆さん、私は手がけた事業全て、特にエンターテインメントの分野に於いて、大成功をおさめてきました。私は定石通りに物事を進め、私の所で働いてくれる者とは誰とでも岩のように固い契約を結んできました。しかしこちらの人物は私と2年間の契約を交わしましたが、まだ1年半も期間を残していながら、私はその契約を破棄しました。彼がイカレていると思ったからです。しかしこの3年間の躍進を目にして分かりました。イカレていたのは私の方だったのです!」
「リック、」彼は続けた。「せめて私に1杯おごってくれないか。いやこのテーブルはすべて君のおごりだな!」

後年良く思ったものだ。ボブ・ホイートリーならきっと素晴らしいマネージャーになってくれただろうにってね。

ボブのオフィスを出ると私はすぐにアルナカタ・ミュージックに電話を入れた。そこはストローブスのマネージメントをしており、私は彼らに4月が終ればバンドに参加できるようになったことを告げた。スピニング・ホイールで夜の時間に仕事を続けている間も、昼間はバンドとリハーサルして良いという同意は得ていたのだ。

ロスと私はクラレンドン通りのフラットへ引っ越し、生活が変わった。請求書などが郵便受けを経由して飛んでくるようになった。そういうものは好きではなかった。請求書は税金や、電気、ガス、水道などを好んだ。私はすぐにタダでは生活できないということを悟った。さらに悟ったのはストローブスからの週20ポンドでは生活するに十分ではないということだった。ロスは週8ポンドになる仕事をしていたが、結婚したり妻を支えたりするための費用のことで父が警告していたことが、突然現実のこととなったのだった。

しかしながら、バンドの一員になれるスリルから、経済的な問題は影が薄れていった。リハーサルは上手くいっていたし、個人的にもデイヴ・カズンズがパリ公演後のバンドの計画を話してくれていた。そこにはダブル・ベース奏者をエレキ・ベース奏者に代えるとか、私がピアノに加えハモンド・オルガンでバンドに参加するという話も含まれていた。

私はとてもワクワクしていたので、チャドウェル・ヒースのグレイハウンドで最後の出演を終えたその日に、ドーヴァーでフランスのカレー行きの船に乗り込んだのだった。

パリには早朝に到着した。しかしその後に辿り着いたのは、とてもみすぼらしい裏通りのホテルの前であった。

トニー・フーバーが一番見た目がちゃんとしていたので、彼がチェックインを行なった。当時私の髪はとても長く、デイヴはその髭とかなりの長髪で一般の人々を恐がらせていた。スコットランド人のダブル・ベース奏者は言っていることは誰にも理解できなかった。いずれにしても彼はほとんどいつでも酔っぱらっていたのだ。だからトニーは必然的に、バンド内ツアーマネージャーの役割を負わざるを得なかったのである。

とても長い1日だったのでロスは寝てしまったが、私はバーで他のメンバーと一緒に過ごした。バーは終夜営業だったのでバンドのミーティングには好都合だった。こうしたことは夫の決断としては一般的ではないし、ましてハネムーンとなれば尚更なのだろうが、バンドのミーティングはとても大事なのだ。そこでは非常に重要なことが議論されるのだ。例えば「次は誰がおごる番だ?」とか「あのちょっと変な緑色したボトル飲んだら悪酔いするかな?」とか。

誰も朝食は食べなかったので、朝9時頃になって私たちはバーから直接現地へ行くことにした。変な緑色の酒が本当に悪酔いさせるものだったことを発見したスコットランド人のベース奏者が、セーヌ川に渡された様々な橋から下を眺めずにはいられないと主張したため、私たちは道すがら何回か立ち止まらなければならなかった。

現地はとんでもないところだった。何とサーカスのテントだったのだ!頭のイカレたどこかのフランス人が、ロックンロール・サーカスを上演しようとしたのだった。基本的なアイデアはこうだ。通常のサーカスの出し物は全て行なう。しかしサーカスバンドによるありきたりなサーカス音楽の代わりに、生のロックバンドに合わせて芸人と動物が出し物をやるのである。

主催者は出し物ごとに適していると判断した様々なバンドを選んでいた。例えば私たちは子どものジャグリングと綱渡りと台飛び込みで演奏する予定だったし、クレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンはライオン調教師が腕を振るう場面で、ヘヴィー・ジェリーはアクロバットと乗馬で出番となっていた。

このアイデアは紙の上では素晴らしく見えたかもしれないが、現実には課題山積であった。まず第一に、ポスターに出す名前を主催者はことごとく間違えていた。 私たちは“レ・ストロボ”であり、続いて“アメイジング・ワールド・オブ・アンディー・ブラウン”と“フーヴィ・ジョリー”だった。バンドの連中はこのことを快く思っていなかったが、ポスターはすでに印刷され、パリの至る所に張り出されている今となっては、何をするにももう遅過ぎた。

ヘヴィー・ジェリーは馬を驚かせてしまっために初日が終わったところで帰国した。アーサー・ブラウンは、オープニング・ナンバーを演奏中に自分のズボンを引き裂いたため、フランス当局に連れて行かれた。比較的穏やかな性格の2つのバンドがその代役を務めた。

私たちが割り当てられた3つの出し物は、すぐに2つへと減らされた。台飛び込みの男が落ちた拍子に骨折してしまったのだ。しかしその見返りにとライオン調教師で演奏するチャンスが与えられた。これも数日しか続かなかった。というのはライオン調教師は文字通りライオンを引っ張って、リングをくぐらせなければならなくなっていたからだ。ライオンは麻酔でフラフラだったのである;2日後彼もまたフランス当局に連れて行かれてしまった。

子どものジャグリングもひどかった。彼らは拾うよりも落とす方が多いくらいだった。綱渡りの綱も緩んでいて、綱渡りが中央まで来ると地上からの高さがわずか18インチしかなかった。

しかし一番の問題は観衆であった。基本的に1人もいなかったのだ。最高でも6人。 私たち誰の目にも明らかだった。大金を失う人物がいて、その人物がまた私たちの出演料やホテル代も払うことになっているということだ。注意深く探ると、ホテル代はまだ支払われておらず、私たちが翌週そこを発つ時に、主催者によって清算されることになっていることがわかった。

自分にも良いところはあるのだと認めたいがために、主催者はロックンロール・サーカスの知名度を上げる最後の努力を行なった。彼はサルバドール・ダリが来場する段取りを取付けたのだ。彼はこれでイベントの信頼性が高められること期待したのだった。しかしそこには1つ大きな不備があった。それは私がダルバドール・ダリが誰かを知らなかったのに、誰も彼が私のピアノソロの真っただ中で姿を見せることになっていると注意してくれなかったことであった。

ソロ演奏は1ヶ所しかなく、私はそれを毎晩楽しみにしていた。誰も聴いている人がいないという事実は関係なかった。とにかくそれは私のソロであり、アドレナリンのレベルがそれ相応に上がるのである。

ソロが半分ほど終った時だった。突然どこからともなくこの長身の、かつて見た中で最も滑稽な髭をたくわえた老人が現われ、私が演奏しているエレクトリック・ピアノの横に立つと、ステッキでピアノの上部をバンバン叩き始めたのだ。私は至極自然に、この男は多分地元の精神病院を逃げ出してきたのだ、危険かもしれないと思った。 何より彼は私のソロを台無しにしたのだ。私は断固たる行動に出た。私は彼を舞台から突き落としたのだった。

関係者らが駆け寄ってきて彼を抱きとめると、彼はそのまま引っ張られて消えていった。私に向かってステッキを振り上げ、威嚇するような身振りをしつつ、わめき散らしながら。

私がソロを演奏し終えるとデイヴがブラブラと近づいて来た。

「あれ、誰だか知ってるかい?」彼は聞いた。
「僕のソロを台無しにしたどこかの酔っぱらいだろ。」私は答えた。
「サルバドール・ダリだよ。」
「じゃあ、君の友だちだったのか?」私は先ほどの行動が、あまり適切なものではなかったかもしれないという印象を持ち始めていた。
 「スペインで一番有名な、現役の芸術家だよ。君は彼を危うく殺すところだったんだぜ。」

翌日のほぼすべての新聞の一面は、私たちが飾った。少なくともサルバドール・ダリが飾った。彼の写真はほとんどの新聞の一面にでかでかと載せられていて、彼は明らかに立腹してステッキを振り回していた。どの新聞も私の名前を間違えて綴っていた。それは“フーリガン[訳者注:行儀が悪く、場合によっては暴徒と化すスポーツチームのファン]” が文字通りにはフランス語にうまく訳せないのと同じようなものであった。

サーカスは主催者が失踪した2日後に終わった。私たちはホテルの宿主に、主催者のオフィスから誰かがすぐやって来てすべて清算してくれるからと念を押して、カレーに出発した。私は宿主が今でも待ち続けているんじゃないかと意地悪く疑っている。

私たちはイギリスへ戻ると、新しい楽器編成でリハーサルを開始した。エルマー・ガントリーズ・ヴェルヴェット・オペラからリチャード “ハッド” ハドソンとジョン・フォードが バンドに加わった。ジョンはベースを、ハッドはシタールに加えコンガやパーカッションも演奏した。私はハモンド・オルガンを楽器編成に加え、デイヴはアコースティックギターとともにエレキ・ギターも演奏するようになった。

デイヴは“アンティーク・スイーツ(骨董品組曲)”というタイトルの新曲を書いた。私たちはその曲を覚えてリハーサルすると同時に、ストローブスの古い曲もたくさんアレンジし直していった。ライヴの出演契約は十分に埋まっていたが、大抵はフォーク・クラブでの出演だった。しかし間もなくこうした状況は変わり始めた。基本的にフォーク・クラブが私たちに合わなくなっていったのだ。私たちが新しい楽器編成で始めたことにフォーク・クラブは付いて来れなかった。例えば“マイ・ラヴ・イズ・ライク・ア・ローズ”といった曲で、デイヴが美しい歌詞を最後まで歌った後に、私がハモンドを片側に傾けてペンキ・ローラーを使って演奏するのを見るなんてことには耐えられなかったのだ。

私たちはすぐに大学回りに切り換えた。大学の方が私たちが行なっていることに、より合っていたからだ。

人気は急上昇した。しかしたぶんそれは予想したほど早くはなかった。人気を実感したのは、M1(高速幹線道路1号線)にあるブルー・ボア・サービス・ステーションでのある夜遅くのことだった。私たちはライブから家に帰る途中に、ちょっとした軽食をとろうとそこに立ち寄ったのだった。

ブルー・ボアはロックの歴史に重要な役割を持つ場所だ。コンベントリー/ノーサンプションにまたがる高速道路沿いのサービス・ステーションで、ライヴから帰るバンドは大抵そこで車を止めた。かなりひどい場所で、食べ物は紙皿とプラスティックのナイフとフォークで出された。バンドかヘルズ・エンジェルか脱獄囚以外は、誰もそのあたりには近づかなかった。

私はセルフサービスの列に並んで、ソーセージとフライドボテトと豆を紙皿にを山と積んでいた。そしてそれがベトベトに崩れる前にテーブルまで運べればと思っていたのだ。

私は列の一番最後に並んだ。そこでは若い女性が、退屈し切っている様子でレジの後ろに立っていた。

彼女は私の皿を見ると続いて私を見た。彼女は目を大きく見開き、口をあんぐりと開けた。

「あなたって、もしかして?」彼女は穏やかな興奮状態の第1ステージに入った。
「そうよ、そうでしょ?」彼女はすぐに第2ステージに突入した。

わたしはできる限り冷静に振る舞おうとした。テーブルに座っていた人たちは身体を起こしてこちらに注目し始めた。

「見た瞬間そうだってわかったわ。」彼女は完全に興奮状態だった。

私は後ろにいたバンドメンバーを見ると、さらに列に並んでいる他の人達に目を移し、肩をすくめて腕を荒々しく動かして、心から崇拝してくれる女性ファンが目の前にいる有名なロック・スターらしく精一杯振る舞ってみた。テーブルに座っている人たちの方に目をやると、みんな食事を止めて私の方を見ていた。私は彼らに“含み笑い”を返した。

その女性はイスに座ったまま後ろを向くとキッチンで働いている人との境となっている窓を開けた。そしてその開口部から中に向かって叫んだ。

「ねぇ、みんな!誰がいると思う。」 
6人ほどの顔が窓から現れた。 
「ジェスロ・タルよ」彼女はそう言うと、向き直って私に輝くような笑顔を見せた。
「ええと、いや、ジェスロ・タルじゃないんだ。」私は静かに言った。彼女以外の誰にも聞こえないように。
「え、じゃあ誰なの?」彼女は言った。皆に聞こえているのを確かめるように。 
「ストローブスだ。」私は言った。
「聞いたことないわ。」彼女は私の皿に目を落とした。でももう皿はなくなっていた。次に食べ物に目をやった。それはプラスティックのお盆に滑り落ちていた。「ソーセージ、フライドポテト、豆、コーヒー1杯。8ポンド6セント(42 1/2ペンス)。」

ニタニタ笑いの海の中を歩くテーブルまでの道のりはとても遠かった。 

スターの座に就くには、まだまだ長い道のりが待っていると、実感した夜であった。