2013/02/27

6 自分自身の力で

デニー・コーデルにもらったカードに記されていた住所は、ダンバートン・ハウス、68 オクスフォード通りであった。オクスフォード・サーカスで地下鉄を降りると、私はその番地にある大きな角地のビルのオフィスの入口に向かい、階段を2階へと上って“リーガル・ゾノフォーン”と書かれたドアをくぐった。

狭い受付には机が1つあり、その向こうに若い女性が座っていた。彼女は私をチラリとも見なかった。3分ほど経ったところで私の方から切り出すべきだと感じた。

「デニー・コーデルさんと約束があるのですが。」できるだけ礼儀正しく私はそう言った。

彼女が顔を上げると、なぜ私が来たことに気づかなかったのかが分かった。彼女は爪のやすりがけに没頭していたのだった。

「申し訳ない、」私は言った。「全部の指を済ませてからで良いですから。」

彼女は爪やすりを机に置くと、ガムを噛みながら言った。「今いないわよ。」
「でも11時にここに来るように言われたんです。」
「ジョー・コッカーとスタジオにいるわ。」
「何時にお戻りですか?」
「戻らないわ。」

彼女が爪やすりを再開したので私はそこを後にした。本当にびっくりだった。 ドアが開いたとしても、なんとほぼ間違いなくそれは追い出すためなのだ。

ドアを開けて出て行こうとした時、トニー・ヴィスコンティが入ってきた。

「リック、」彼は言った。「中を通って私のオフィスに来てくれ。デニーはスタジオで缶詰だ。多分徹夜になるだろう。」

彼の後についてオフィスに辿り着くと、そこで彼はコーヒーをいれてくれた。

「レコーディング・セッションはたくさんやってきたのかい?」彼が会話の口火を切った。
「それほどでもないです。」私は言った。

私はトニーといると心がなごむような気がして、 いちかばちか彼にはオリンピック・スタジオの時よりももっと心を開いてみようと思った。私は王立音楽大学に通っているが、そこはあまり楽しくなく、むしろプロのミュージシャンにとてもなりたいと思っていて、ゆくゆくは自分の音楽を作りたいのだと説明した。

トニーは私を数秒間じっと見つめた。

「君は人生の中で、いくつかの重要な決断をしなければならない時期に来てるんだよ。それはまた賭けでもあるんだけどね。君が大成功するだけの能力を持っていることは疑う余地がないと僕は思う。君の演奏スタイルは他のどんなピアノ奏者やオルガン奏者にも似ていない。一度君のことがうわさになったら、きっとスタジオでは引っ張りだこになるだろうな。」

私は座ったまま彼が続けるのを一生懸命聞いていた。

「そうは言っても、君はチャンスがそこにあるうちに、それを掴まなければならない。もし君がセッションを頼まれても、講義や授業を理由にそれを断わるなら、 仕事は誰か他の者のところへ行ってしまう。レコーディングは君の大学の予定に空きができるまで待ってはくれないからね。」

「きっと両親は頭がおかしくなっちゃうと思うんです。」私は言った。「両親は私の音楽教育を6歳の時から応援してくれてるんです。そんな余裕がない時でさえも。もし今わずか1年と少しで大学を止めたら、精神的にひどくショックを受けると思うんです。」

「もし絶好の機会がやって来た時に君がそれを活かせないんだとしたら、教育を受けることに何の意味がある?」トニーが反論した。 「なぁ、リック。君は独特のスタイルを持っている。だからアンダーグラウンド・ミュージックが表舞台に躍り出ようとする今の流れに乗れれば、君は間違いなく名声を得るだろう。まず手始めに、デモ・セッションの仕事が1つあるんだがどうかな。もちろん飢えを凌ぐだけの稼ぎが得られるフル・セッションもいくつかあるよ。ジミー・トーマスとの仕事もまだ残っているし、私はストローブスもプロデュースしているんだが、彼らはバンドにピアノ奏者がいないから、いつもセッションマンを使っているんだ。マーク・ボランのTレックスもいる。たぶん彼らはそろそろブレークするよ、トップクラス入り間近だ。」

私はよだれが出るほどの思いであった。トニーは政治家になるべきであった。

彼は続けた。「もう1人、ガス・ダッジョンというプロデューサーがいるんだ。彼もたくさんプロデュースを担当している。彼も君にセッションの話を持ってきてくれると思うよ。リック、よく考えるんだな。今週中に電話で結論を聞かせてくれよ。」 

結論も自分が何をやりたいかも、もう疑問の余地はなかった。すでに問題は、何をではなく如何にになっていた。その時は自覚していなかったとしても、その決断によって私は、音楽産業で己の未来を築くための本当の第一歩を踏み出したのであった。


火曜日の朝のことだ。私はバージル・チャイコフ先生とのクラリネットのレッスンが終了したところだった。たった3分間のレッスンだ。

バージル先生と私は現実的な面で理解し合える関係になっていた。私が一番最初に泥酔して彼のレッスンに来たほとんど直後には、もうそうなったのだった。私としては、30分というレッスン時間の間に、キーキーという音や滴り落ちる唾の被害を彼ができるだけ被らないようにしたかったのだが、これは私がスケール練習を1つやったら息が切れたと訴えたことで達成されたのだった。彼としては毎週毎週言い訳を聞き続けることになりそうだったのだが、それよりも私たちは腰を下ろし、主に音楽に関することについて話をすることにしたのだ。そして驚くべきことに、レッスン時間が終ると私は気分がすっきりするようになったのである。

バージル先生との最後のレッスンもいつも通りに進んだ。

「ウェイクマン君、Cスケールで2オクターブだ。」バージル先生は言った。私の唾がそのスケールのゾッとするほど酷い音に混ざると、彼は身震いした。それはまるで風呂に潜って栓を抜いたところで、そのまま水中で楽器を吹いているような感じであった。

私は一番上のCをどうにか出すことができて、本当にとても嬉しかった。と言うのは今までCの音は出せたことがなかったのだ。これこそ間違いなく個人的進歩と言うものである。

「ちょっと息切れです。」私はしどろもどろにそう言った。
「そうか、じゃあちょっと休憩にして話でもしようか。」彼は言った。

私は唾をはね飛ばしながら彼の机のところに行き腰を下ろした。

「他の授業はどんな感じかね?」彼はたずねた。
「実は大学を止めようかと思っているんです。」私は思わず言ってしまった。

彼の目がキラリと光り机の上に身を乗り出した。

「そうか、君がいなくなるのは残念だ。私個人としてはこうしてちょっとおしゃべりできるのを楽しんでいたんだが。まあとにかく今すぐ出て行きたいのであれば、行きなさい。私が君を引き止めないうちにね。さようなら、君に教えることができて嬉しかったよ。」

私はバージル・チャイコフ先生の長所に正直さは入っていないという確かな印象を持っていた。

「チャイコフ先生、そのことでちょっとお話して良いでしょうか?」

彼は心の中でうめき声を上げ、腕時計を見ると心の中で検討した。これを最後に私ともう会うこともなくなるのであれば、20分間愚痴を聞かされながら座る価値はたぶんあるだろうと。

「もし私が何か役に立てるのであれば、こんな嬉しいことはないが。」彼は嘘をついた。

私は身を乗り出すと、大学に失望したとか音楽の先生やクラシックの演奏家にはなりたくないとかいう話を、とりとめもなく話した。

一生懸命私が話続けていると、バージル先生は明らかに退屈し始めたようで、 数分後には自分のクラリネットを取り上げて、自分の気晴らしにちょっと難しい曲を演奏し始めた。私の苦しい状況に彼は心から共感してくれているとは思えなかった。そして私に質問をする時になって、やっと口からクラリネットを離した。

「それで、君は何になりたいんだね?」彼は聞いた。
「ロック・ミュージシャンです。」私は答えた。

2人で床にバラバラになったクラリネットを拾い集めた。

「リードが割れたみたいです、チャイコフ先生。」私は言った。

彼は膝をついたまま私を見た。

「個人的な意見だが、君は大学の建物から出て、心に決めた自分の職業のことだけ考えて、一度も振り返ることなくここから去るべきだ。そして決して戻って来てはいけない。決して。忘れ物を取りにくるのもダメだ。友人に頼んでロッカーの中身は君の行き先へと送ってもらいなさい。潔く止めることが大事だ。たった今、今すぐだ。さようなら。」

この演説のようなアドバイスが進むに連れ彼の声は次第にうわずり始め、最後は気が触れたかのようになった。今でも誓って言えるのだが、部屋を出た時にも、このイカレたような甲高い声が私の後を追うように廊下に響き渡っていたのであった。

次に行くべき場所はニコラス・アンド・クラークのオフィスだった。そこはシティ・オブ・ロンドン[訳者中:the City (of London) はロンドン(the Greater London)の商業と金融の中心街]にある大きな民間建築資材会社で、戦前父が雑用係から始めて名高い販売担当重役にまで出世したところなのだ。

私がそこを訪れることを父はしばらく前からうすうす感じていたのではないかと、私は今でも思っている。私が人生でそのビルに入るのはわずか2回目であったにもかかわらず、私が事前に何も言わずに彼の仕事場に現れても、彼は驚いた顔一つ見せなかったからだ。

彼は私を昼食に連れ出し、そこでここ数週間に私の人生に起きたことすべてに、根気よく耳を傾けてくれた。

「順調な航海ばかりではないぞ。」私が話し終えると彼は言った。そういったセッションだと定収入は保証されないし、トニー・ディー・ショーバンドだけでは正直なところ生活賃金[訳者注:living wage。人がある生活水準を維持するのに必要な最低の時間給。イギリスやスイスでは、週40時間で付加給がないときの住宅、健康管理、余暇などのすべてを含む一定の生活水準を満たすことができる時間給を指す。]にも満たないだろう。でもおまえはもう決心したようだから、父親としてできることは精神的支援くらいだな。特に次の、とてもやっかいな場面でね。」
「セッションの仕事を見つけるってこと?」
「いや、大学をやめることを母さんに話すってことだ。」

それは事実簡単には受け入れてはもらえなかったのだった。

ウェイクマン家始まって以来の、涙と叫び声と恐ろしいかんしゃくが吹き荒れた。母はその上かなりうろたえてもいた。

両親が一番心配していたのは定収入のことだった。2人とも私が家にいることを喜んだが、それは仕事が来るのを待って家でゴロゴロしているのを許すのとは違っていた。

定収入の問題を最初に打破したのは、ロニー・スミスに関する思いも寄らない情報であった。

それはは1968年のクリスマス前のことだった。今でもその理由はわからないのだが、ロニーのオルガン奏者が辞めてしまったのだ。ロニーは自暴自棄となった。クリスマスは繁忙期である。さらにロニーのバンドはレディングのトップ・ランクに仕事場を移すことになっていた。だからもし私が翌日から参加できるならさらに、10シリング(50ペンス)上乗せしてくれることになったのだ。

私はこの話しに飛びついた。どのみち昼間は空いているので、どんなセッションが来ても受けることができるわけだし。

私がバンドに戻った最初に夜は昔と変わらなかった。アシュレーもロッドもケンも、まだそのバンドにいたが、その他のメンバーは知らない顔であった。それでも今回は女性に関してももううぶなわけでもなかったし、実際新人として扱われたわけでもなかった。

私の髪は襟元まで伸びていた。私はポップ・ミュージック産業のあらゆる面に精通していて、比較的短期間にかなりの自信家になっていた。

人生はとても上手くいっていた。家賃無しで家で暮らしていた。もっとも昼間はセッションの話があれば片っ端から演奏したし、夜はトップ・ランクで働いていたので、ほとんど家にはいなかったのだが。私はミュージカル・バーゲン・センターでL100ハモンドを購入し、父から2年使用したフォード・コーティナを譲り受けた。そう、人生はとても上手くいっていたのだ。すべてが安定していた。日曜の教会を除いては。それが難題であった。

その年の10月までは、私は15年間に渡り日曜礼拝に欠席することなどほとんどなかった。4歳という幼い年で日曜学校に通い始め、私は教会での仕事を一つ一つこなしながら、日曜学校の先生と少年隊の准尉になるに十分な資格を得ることができた。サウス・ハロー教会は私の人生の中でとても大きな部分を占めていた。それはもう、9月18日に友だちのポール・サットンと共にローキン牧師から洗礼を受けたほどであった。

2ヶ月後、私の人生は大きく変わった。1週間ずっとセッションで忙しく働き、次第に主なスタジオで名が知れる存在となった。そして週4晩はロニー・スミスのところで働いた。 残りの3晩は街にくり出すか、パブのバンドで飛び入りミュージシャンとして働いた。土曜日はトップ・ランクの仕事がとても遅かったので、朝5時までに帰宅できることなどめったになかった。さらに疲労とひどい二日酔いのダブル攻撃で日曜の午前中は起きることができなかったので、サウス・ハローでの朝の礼拝に行くことはすぐに挫折してしまった。日曜の夜も仕事だったので、夕の礼拝は問題外であった。だから洗礼から3ヶ月もしないうちに、教会は私の生活から完全に消えてしまったのだった。

新年が来ても様子は変わらなかった。トニー・ヴィスコンティは仕事に関して本当に良くしてくれた。自分がプロデュースする仕事でピアノかオルガンが必要な場合は、必ず私に話を持ってきてくれた。

レディングでの生活も上手くいっていた。私はバーの奥で働いていた地元の女性とつき合い始めていて、そこの料理長とも友だちになり、ただで食事を出してもらっていた。アシュレーと私は、取扱説明書には絶対書かれていないようなことをハモンドにやらかしては、ロニーの人生を不幸にし続けていた。 そんな時に私は、ガス・ダッジョンから電話をもらったのだった。

それはある木曜の午後、レディングでリハーサルをしていた時のことだった。支配人がバンドのところへやって来て、オフィスに私宛の電話が入っていると告げた。私は彼について部屋に入り、机の上の受話器を取った。

「もしもし、」私は言った。
「私はガス・ダッジョンだ。」電話の声はそう言った。
「まだ君と会ったことはないんだが、トニー・ヴィスコンティが君に電話してみたらどうだと言ったものでね。彼が言うには君ならメロトロンの使い方がわかると。」 

メロトロンは新しいキーボード楽器で、あらかじめ録音されたループ状のテープを使うことでバイオリン・セクションに近い音を出すことができるという代物だった。その機械は問題だらけだった。例えばループ状のテープはそれぞれ8秒間しか音を出せなかったし、音数を多く鳴らせば鳴らすほど全体のチューニングが下がってしまうのだ!

私はあるスタジオに用意されたいたメロトロン初号機の1台で、かなりの経験を積んでいた。それはリーガル・ゾノフォーン用にトニー・ヴィスコンティがプロデュースした「バタシー発電所」というタイトルのアルバムで演奏した時のことだった。その時のバンドはジュニアーズ・アイズと呼ばれていた。多くの検証作業と深刻なフラストレーションを乗り越えて、私はチューニングが狂わないように保つ技術を発見し、音が途切れる問題も克服することができるようになっていた。

ガスは続けた。「トニーの方の名簿にデヴィッド・ボーイというアーティストがいるんだ。基本的にはフォーク・シンガーなんだが、‘スペース・オディティ’っていう曲があって、トニーはデヴィッドが望むようなかたちでは自分はプロデュースできないと思ったらしいんだ。そこで私に頼み込んできたというわけだ。私はメロトロンを使いたいんだが、トニーに、メロトロンを弾かせるなら君が適任だと言われたんだ。」

彼は私にレコーディング・セッションの日時を教えてくれた。私は礼を言ってリハーサルに戻った。

私はセッションのためにトライデント・スタジオに到着した時のことを、とても鮮やかに覚えている。理由は私が神経質になっていたからなのだ。それはそれまでで初めて、知っている人が誰もいないというセッションだったからだ。私は他のミュージシャンは誰一人として知らなかった(でも彼らは互いを知っていたのだ)。エンジニアにも会ったことがなかった。さらにガス・ダッジョンと話をしたのも、レディングのトップ・ランクで電話をもらってそのセッションに参加要請された、たった一度きりであった。

私は12弦ギターでその歌を聴かせてくれたデヴィッド・ボーイに紹介された。その時、これは凄い音楽だ、周りのどんな音楽とも違っている、と思ったことを覚えている。

バックトラックがレコーディングされている間に、コードをいくつか手早くメモし、自分に与えられた仕事をこなすためにメロトロンの前に立った。ガスは簡単に言ってしまえば、私が弾きたい場所で弾き、曲に効果的だと思うような演奏をしてくれと言った。私たちは通し練習をした。ガスは満足だと言った。そこで1度レコーディングを行なった。今度もガスは満足だと言った。そして9ポンドの小切手をくれたので、私はウォーダー街のシップというパブ経由で家に帰った。
 
そのレコードは最初フィリップス・レーベルから最初期のステレオ・シングル盤としてリリースされ、今では激レアのコレクターズ・アイテムになっている。

“スペース・オディティ”は順調な船出というわけにはいかなかった。と言うのは、アメリカ人宇宙飛行士3人を巻き込んだ死亡事故[訳者注:1967年に起ったアポロ1号の火災事故。 訓練中の事故で司令船が炎上。船内にいた宇宙飛行士3人が死亡した。]により、当初アメリカでレコードは発売されなかった。イギリスでもフィリップス側から悪趣味だとみなされて回収されてしまったのだった。

そのレコードが再び別のいつくかのレーベルから発売され、ついにその内容に相応しい評価を得るに至ったのは、1969年の7月頃だった。レコードがヒットチャートを猛烈な勢いで上がって行くのを見て、私は信じられないくらいのスリルを味わった。私は地元の新聞、ザ・ミドルセックス・カントリー・タイムスのダン・ウッディングという人物からインタビューを受けた。そしてそれまで以上にセッションへの要請が増え、私は地元でちょっとした有名人になった。

その年はあっという間に過ぎていった。仕事が大きな負担となって、トップ・ランクでのリハーサルに参加できなくなり始めた。ロニーは催し物などでも私に演奏させたが、私はそれが嫌で、正直なところ真面目にやらなかった。ロニーが私に不満を抱いていたとは知っていたが、私は自分がもうアシュレーと同じ立場にあると考えていた。つまり代わりはきかないということだ。

私の解雇は劇的なものではなかった。ロニーはただ私を部屋に呼び、2週間の猶予期間をやるから出て行ってくれと言った。私がレディングのトップ・ランクの歴史上最も劇的なミュージシャン解雇騒動を見ることになったのは、この2週間の間のことであった。

すべてはドラマーのテリー・コグランドを中心に繰り広げられた。テリーは何年もずっとトニーと一緒に仕事をしていて、2人の関係は控え目に言っても荒れ狂ったものだった。テリーは素晴らしく多才なドラマーで、妻と息子と住宅ローンを抱えて定職を必要としていた。ロニーが払っていたお金は、バンドの中の私のような独身者には十分だったが、テリーや他の結婚している者たちが、それだけで生活するのはとても難しかった。テリーとロニーは日頃から、この件で非常に激しい言い争いを繰り返していた。そしてロニーが常に自分が上の立場だということをこう言って示したのだった。「テリー、気に入らないんだったら、好きにしていいんだぜ。」

ある水曜日の夜のこと、1500人を越える人々が集まった大規模な民間の催し物の席で、テリーはそれを実行したのだ。

夜会ではロニーはいつも2つの賞品を用意していた。彼は毎回聴衆に同じ2つの質問をし、同じ2つの落ちで終らせていたのだ。

まず最初、彼は誰かポケットかバッグの中にグリーン・シールド・スタンプ[訳者注:イギリスのGreen Shield Trading Stamp社の商品引換えスタンプ]を持っていないかと聞く。誰もが数分間探し回ると、やがて哀れな誰かが頭上で紙切れをひらひらさせながら舞台に急いで近づいてくる。発見したその紙と引き換えに何か素晴らしい賞品がもらえることを心から期待して。

しかしロニーはそのグリーン・シールド・スタンプを掴むとこう言うのだ、「どうもありがとう、オレはコイツを集めてるんだ。」そしてすぐにカウントを始めダンスが続行され、観客はみんなそんなロニーの“素早いおちょくり”に笑い声を上げるというわけだ。

テリーは毎回同じこの“素早いおちょくり”に7年間つき合わされていた。 テリーにとってその目新しさなど、6年と11ヶ月半も前に消え去っていたのだった。

また少し経ったところで、ロニーはこう告げる。銀製のロンソン社製ライターを、最初に舞台の前まで来て映画スター犬の名前を2つ言えた人にプレゼントしたいと。

ロニーは優勝者と舞台に上げて、グリーン・シールド・スタンプを渡しながら言うのだ、「ほらグリーン・シールド・スタンプ数十枚。あとは残り2千枚ほどスタンプを集めるだけで、ロンソン・ライターをゲットできるぜ。」

会場は大笑い。そしてダンスが続く。

この夜、テリーはコワレた。7年も聞かされたグリーン・シールド・スタンプの話と貧困レベルを下回る賃金へのうっぷんが、彼に一線を越えさせたのだ。私は特別にそれを見ることができた数少ない目撃者の1人となった。

テリーとロニーは最初のセットの前にかなり凄まじい言い争いをしていて、2人とも険悪な状態だった。最初の休憩中テリーはいつもよりかなり多く酒を飲んだ。次の休憩中テリーは酔いつぶれていた。

ロニーが“賞品”のパート1を披露したのは、3つ目のセットの時だった。

始めは何事もなかった。ロニーがお決まりの質問をした:「誰かグリーン・シールド・スタンプを舞台の前まで持ってきてくれないか?」

間もなく1人の女性が、スタンプをこれ見よがしに振り回しながらやって来た。 ロニーは彼女を舞台へと上げた。テリーはドラムの演壇から飛び降りるとロニーが立っている場所へ素早くやって来て、女性からスタンプを奪い取ってマイクに向かって叫んだ、「ありがとう、オレはコイツを集めてるんだ。」。

全員大爆笑。特にバンドメンバーに大ウケ。 ただしロニーを除いては。ロニーは笑わなかったのだ。ロニーは面白くなかった。彼は向き直ると、すでにドラムセットの向こうに戻っていたテリーを睨みつけた。テリーはチェシャ猫[訳者注:Cheshire cat、Lewis Carroll作の「Alice's Adventures in Wonderland(不思議の国のアリス)」に登場する猫]のようにニタニタと笑っていた。

バンドメンバーはその夜のお楽しみはまだ終っていない気がしていた。それは正しかった。

次に演奏が終った時、ロニーはテリーを強く叱責した。テリーはもうベロンベロンに酔っていた。7年間の欲求不満がついに噴出していたのだ。

ロニーがロンソンの煙草ライターのくだりを早口で始めた時、私たちはテリーがグリーン・シールド・スタンプをまだポケットに入れていることに気づいた。映画スター犬の質問をし終わったところで、ロニーもそのことに気づいた。彼はすぐにテリーに向かって叫んだ、「テリー、今すぐそのスタンプをここへ持って来い。」

テリーが舞台の前に現れたのと、中年の女性がマイクに向かって「リンチンチンとラッシー」と答えたのは同時だった。

テリーはロニーを横に押しのけると、グリーン・シールド・スタンプの束を彼女の手に押しつけて叫んだ、「あとほんの2〜3千枚で、ライターがゲットできますよ!」

会場は爆笑の渦。誰もがそれをそういうものだ思ったに違いない。

ロニーは耳から蒸気が吹き出るほどカンカンだった。テリーはヨロヨロしながらドラム・セットへと戻って行った。残りのメンバーは笑い過ぎて演奏ができなかったが、それがまたわれらが素晴らしきバンドリーダーのお気に召さなかったのであった。

彼は振り向くとテリーを見た。

「オマエはクビだ、」彼は叫んだ。
「何でしょう、ヘンリー?」 テリーがモゴモゴと言った。
「オマエは、クビだ。」

最終宣告をしたことに満足して、ロニーはワルツ・メドレーをお送りしますとアナウンスするとカウントを入れた。しかしながら数小節進んだところで、ドラムの演奏が明らかに聴こえてこなかった。

ドラムの音は聴こえるのだが、それは演奏されたものではなかったのだ。ドラムセットは分解中だったのだ。

ロニーは恐怖のあまり振り向いた。

テリーはすでにドラム・ケースを持ってブラス・セクションの間を苦労しながら進んでいるところだった。
 
聴衆はこれが寸劇の一部なのかどうか、明らかに判断しかねているようだった。ワルツ・メドレーはもう完全にダンスができる状態ではなくなったので、聴衆はそれはこの夜の出し物には予定されていなかったんだと思ったようで、何がこれから起るのかをもっと良く見るために舞台の前へと殺到しだした。

ロニーは最も賢明な行動に出た。彼はここで休憩ですとアナウンスし舞台を回転させたのだ。控え室で彼はテリーに抗議した。テリーは何も受け入れなかった。彼はクビにされたので、その場ですぐに立ち去ろうとしたのだった。

最後のセットはドラムなしで行なった。その場の聴衆はわれらの去り行くドラマーの酩酊具合にあっという間に近づいていたので、このことはそれほど気づかれなかったと思う。

セットの中盤に来てテリーは、荷造りしたドラム・ケースをダンス・エリアを抜けて正面玄関まで運び始めた。彼はこの作業を静かにはできず、全部運ぶまでに何回もつまづかずにはいられなかった。

最後の2つのケースにはタムタムが入っていた。舞台から見ていると、テリーはそれを運ぶのにかなり苦労しているようだった。タムタムはそれほど重くはないので、その様子が私たちは気になった。それでも、彼の泥酔状態が肉体に大きな影響を及ぼしているんだろうぐらいに思っていた。

しかし、その推測は間違っていたのだった。

ダンスフロアを中程まで横切ったところで、テリーは重くて持てなくなったケースを落としてしまった。フタが勢いよく開き、中身がフロアにぶちまけられた。

手助けしようとした人たちが集まってきて、一緒に拾い集めてくれた。テリーのタムタムと ー トップ・ランクの食器類の大半を。

私は猶予期間の最終週まで任務を全うし、今度こそきっぱりとロニーの仕事を辞めたのであった。その後一度だけ別の機会にトップ・ランク・ダンスホールに戻ったことがあった。それは奇しくも私の写真が、「明日のスーパースター」の見出しでメロディー・メーカー誌の表紙を飾ったのと同じ週であった。

アシュレーはそれを拡大コピーしてロニー・スミスのドアに張り付けた。その上にはさらに貼紙がピン留めされ、こう書かれていた:「ロニー・スミスはこの男を2度もクビにした。今度はあんたの番かもよ。」