2013/03/11

8 変化の嵐

私たちに対する好意的なレビュー記事が、有名な音楽誌のほとんどに載るようになっていった。そこには同時に私の演奏についても何かしらのコメントが含まれていた。特にメロディー・メーカー誌は、“コート・イン・ズィ・アクト(現場より)”というコーナーで定期的に私たちのことを取り上げてくれた。ただこれは言っておかなければならないが、そのコーナーは必ずしも読者が信じるほど常に公平だとは言い難いものであった。

70年代初頭のライヴ・シーンにはとても勢いがあったので、バンドは地方を回りっぱなしだった。雑誌社はジャーナリストを国中に送る余裕はなかったから、地方の都市では可能な場合にはフリーのライターを良く使ったものだった。その中には手斧(hatchet)と四分音符(crotchet)の区別すらつかない者もいたのだ。それでも今は有力音楽誌の編集者になっていたりするのだ。

ドンディーで行なったライヴのことを良く覚えている。そのライヴはメロディー・メーカーにレビュー記事が載ることになっていたが、それを誰が書くかは知らなかった。ライヴ開始の1時間程前に楽屋のドアがノックされ、1人の老紳士がストローブスのメンバーと話がしたいと言ってきた。連中は酒を飲むので忙しかったので全員が私を指差した。「彼がお相手します。」とか「聞きたいことは何でも彼が答えます。」といった叫び声が部屋中に響いた。

何がなんだかわからないうちに、私はこの見知らぬ人物と2人きりにされ、彼はポケットからメモ帳を取り出した。

「わたくし、今夜のコンサートのレビュー記事を書くようにと言われておりまして。」彼はためらいがちにそう切り出した。「わたくしが家内を車で拾う前に、どなたか助けていただけないかと思って来たのです。わたくしどもは今夜映画を観に行くのですよ。彼女は映画が好きでしてな。それに近頃はそれほど外出もしなくなりましたもので。」

夫婦の好き嫌いを長々と語り始める前に、彼の話を遮った方が良さそうに思えた。

「あなたはどうやって映画にも行き、同時に僕らのコンサートも見るつもりなんですか?」手始めの質問としてはこれは理にかなったものだと思った。

「あぁ…、わたくしはコンサートには来ません。」彼は言った。「最近の音楽はあまり好きではないのです。いや本当を言えば、全然好きになれんのです。美しいメロディーもなく、ただ頭が痛くなるだけですから。」
「じゃあ、なぜショーのレビュー記事を書こうとしてるんです?」次の質問としてはこれも理にかなったものと思えた。

「それはですな、少し前にメロディー・メーカーの編集者から連絡がありまして、1回につき20ポンドでレビュー記事を書かないかというお話があったのですよ。そりゃもう、今の1週間分の稼ぎより多い額ですからな、そのチャンスに飛びついたわけです。しかし実は1つもショーには行っておらんのです。バンドの誰かと会うだけです。そうして演奏曲目の一覧と、ショーのハイライトと考えている部分はどんな感じなのかを簡単に教えてもらいます。わたくしはレビュー記事を書き、その晩は家内と出かけるというわけです。」

私はびっくり仰天して、そのまま座っていた。

彼は続けた。「必ずしも毎回バンドに会いに行くわけでもありませんですな。時にはバンド・スタッフの方に会うだけです。今までトップ・バンドは全てレビュー記事を書かせてもらいました。ザ・フー、ブラック・サバス、ジェフリー・テル。」
「ジェスロ・タル」私は訂正した。
「いやはや、それだからそのレビュー記事は採用されなかったんですな。」 

ハッドが控え室に入ってきた。

「このご老人がレビュー記事のことで少しばかり手伝って欲しいそうだよ。」私は言った。「お力をお貸しした方が良いかな、ハッド?」

ハッドはそれはもちろんだと感じていて、ご老人をしこたま酔っぱらわせ幸せな気分にして帰してやった。

ドンディーのレビュー記事は素晴らしいものになった。

マネージメント側は、私たちはそろそろロンドンの有名な場所で演奏すべきだと判断し、同時にそれをライヴ・レコーディングすると決定した。1971年7月11日にクイーン・エリザベス・ホールでの出演が決まり、トニー・ヴィスコンティがその録音とLP制作を任されたのであった。

7月がやって来るまでに、私たちのショーは芸術的なレベルにまで達していた。 どちらかと言えば、クイーン・エリザベス・ホールの前夜、エクセター大学で演奏した時がピークだと言えた。しかしその大事な日は滞りなく終り、皆ホッと胸を撫で下ろしたのだった。私たちは大入り満員の観衆の素晴らしい歓迎を受けたのだ。ショーの後の楽屋裏でマネージメント側から、全国紙が取材に来ているから多分ザ・タイムズ、ガーディアンズ、フィナンシャル・タイムズ各紙にレビュー記事が載るだろうと告げられた。

翌日、わたしは3紙全てを買い求めた。3紙ともにレビュー記事を載せていて、そのどれもが素晴らしい内容だった。どの記事でも私を取り上げて特別にコメントしていたのも最高だった。その日以降、特にメロディー・メーカー誌の次号の表紙を、“明日のスーパースター”という大見出しと共に私の写真が飾るに至って、状況は大きく進展したのだった。

アルナカタ・ミュージックにはインタビューの申込が殺到した。事態に対処するためにロック広報担当主任のトニー・ブレインズビーが呼ばれた。

私はその後数ヶ月にわたり、誰彼なしにあらゆる人と話をした。ティーンの女の子の雑誌、タブロイド紙、音楽雑誌、地方新聞、そして何とワールド・サービス[訳者注:BBC放送の海外向けラジオ放送部門]のラジオ番組まで取材に来たのだ。私にインタビューしたい人がいれば、いつでも私はそれを受けた。必ずお酒を飲みながらではあったが。
 
私が酒飲みだという評判は、音楽の評判と同じくらいの速さで広まっていった。しかし私は全く気にしなかった。逆にそれがために、さらにマスコミがやって来るようになった。大抵のリポーターはインタビュー中に酒を1〜2杯飲んでいたが、結局インタビューが終るとその後一緒に飲みに行くのが常で、その結果私たちは良き友だちとなるのであった。

クイーン・エリザベス・ホールでのライヴ・アルバムは「ジャスト・ア・コレクション・オブ・アンティークス・アンド・キュリオス(骨董品)」というタイトルで、アルバム・チャートの29位にまで上ったが、私は依然としてストローブスで週20ポンドしか稼げなかった。 さらに年中巡業に出ていることで、セッションをして収入の不足分を補うこともできなくなっていた。家賃の支払いがいつも遅れるようになり、家主のクリアリー夫人は間もなく我慢の限界に達した。クリスマス直前になって、彼女から契約が切れる3月末までに出て行って欲しいと言われたのだった。

大打撃だった。週20ポンドの収入で恐らく30ポンド近くの支出があるのに、どこかに住む場所を探すのは生易しいことじゃない。

私はこのような事態を父に相談してみた。父は住宅ローンが組めないでいるなんてもったいないと言った。今こそ自宅を持つという長いはしごを上り始める絶好の時期だと感じていたのだ。彼はこの1年でどれくらい貯金できたのかと聞いた。私はだらだらと機材の値上がりとか旅費とか宣伝とかの話をした。

父はそれを英語に訳してくれた。「つまり貯金はゼロだということなんだな。」
「父さん、いやまぁ、そう言うわけでもないんだけど。」
「ふむ、息子よ、どうやらお前はできるだけ早く事態を解決しないといかんようだな。そうしなければホームレスになるしかない。」

それに対する答えが何も見えていたなかった私は、大いなる窮地に立たされていた。父には答えがとてもはっきり見えていたが、私のためにその選択肢を鮮やかに描くことに腐心した。

「知っているかどうかわからんが、今だと価格が4千から5千ポンドの間の家なら前払金として約500ポンドあれば良い。どこかから調達できんのか?たまたまウェスト・ハローに売り出し直前の素敵なテラス・ハウスがあるのを知ってるんだが、寝室2部屋付きで4千500ポンドってところなんだ。お前には申し分ないと思う;まぁいずれにしても早く行動した方が良いだろうな。必要書類を揃えて住宅ローンを組むのに3ヶ月ぐらい必要だからな。私が言えるのはまぁそんなところだ。」

私はストローブスのマネージメントに事情を話した。私はちょっと的外れな質問から話を始めてしまった。「これからの3ヶ月で昇給はあり得るでしょうか、もしあれば、前借りすることはできませんか?」

マネージメントからの標準的な答えが返ってきた。

「まぁ座りたまえ、リック。君も良く分かっていると思うが、バンドは潜在的成長期に突入している。それはつまりすべての活動への投資を慎重に行ない、印税収入も今後もし現金の流れが不足するなどという事態が起っても、それを最小限に抑えるために蓄えておく必要があるということだ。」

それはつまりマネージメント的言い方で「ダメだ」ということであった。 

私は今抱えている問題を伝え、住む家を借りるお金を稼ぐためには、バンドを辞めてセッションをする生活に戻ることになるだろうと言った。

ストローブスのマネージャー、マイク・ドーランが机から身を乗り出した。

「君の問題を解決できる案が1つあるんだ。今、来年早々に撮影される予定の映画の仕事をしているんだが、そのサウンドトラックの制作にもちょっと関わっているんだ。君にその作曲の仕事をお願いしよう。そうすればその作曲料で500ポンドくらい手に入れることができる。2〜3日待ってくれないか、話をまとめてみるよ。」

2日後、問題は片付いた。あるいはマネージメントは私にそう信じさせた。映画の仕事は私のものとなり、1971年3月末に500ポンドが前渡しされることも決まった。今にして思えば映画なんて、はなからなかったんだろうと確信している。私がバンドを辞めてセッションの仕事に戻らないように、ただそんな話を聞かせてくれただけだったのだ。いずれにしてもその理由は分からないが、彼らは私の頼みを聞いてくれたというわけだ。

すぐに前払金が手に入るという思いに勢いを得て、私は父が話してくれた不動産の購入に突き進んだ。住宅ローンを組み、弁護士に前払金用の500ポンドの先日付(さきひづけ)小切手を渡した。小切手は契約がかわされることになっていた当日に、私の銀行へと渡ることになっていた。

契約完了の日の1ヶ月前、ストローブスのマネージメントから私に、映画の撮影は中止になったという連絡が入った。

大打撃だった。銀行にあるお金は1ポンドにも満たなかったが、1ヶ月足らずの内にサウス・イーリングにあるウェストミンスター銀行には500ポンドの小切手が渡るはずだった。

もう家の購入の関係者に正直に話すしかなかった。まず最初に銀行に電話をした。

銀行の支店長であるウィリアムス氏と、その日の午後に会う約束をした。彼にはまだ会ったことがなかった。口座に3ポンド以上持たない人間なら、決して支店長などには会わないものだ。

私は彼に会うことに何の期待もしていなかった。どう言い訳の練習をしたところで、私の方の問題であることは隠し様がなかった。口座にある金額の、少なくとも500倍の小切手を書いたのだから。

ウィリアムス氏は50代半ばの、背の高い、品のある男性であった。壁にオーク材を使ってある彼のオフィスに私は案内された。彼は机の向こうで立ち上がったが、明らかに初めて私に会った動揺から立ち直ろうと苦戦中であった。私はすぐにこの外見が銀行関係の世界では見慣れていないものなのだと悟った。

「ウェイクマンさん、おかけ下さい。」彼は手でイスを示した。「さて、ご用件はどのようなことでしょうか?」

私は5分ほどを費やして、できる限り言葉を尽くして事態の説明をした。まだ短い私の職歴で起きた事柄を、父から受けたアドバイスまで含めて、包み隠さず全て話した。

ウィリアム氏は、私が最後の言葉を発し終えるまで黙って座っていた。

「恐らく、弁護士の手数料も支払わねばなりませんね。」彼は言った。「それがいくらぐらいになるかお分かりですか?」

そのことはすっかり忘れていた。

「いや、きちんとは分かっていません。100ポンドぐらいじゃないかと思います。」

彼は目の前にあるフォルダーを開いた。

「現時点の口座の状況をちょっと確認してみましょう。」

彼は目の前の書類を詳しく調べると、顔を上げずに言った。

「残高は18シリング6ペンス(92 1/2ペンス)ですね。」

顔を上げると話し続けた。

「ウェイクマンさん、来年の音楽面での見通しはどんな感じですか?お話しいただいたようなセッションに参加して他の方のレコードで演奏する機会を増やすことで、収入を十分補えそうでしょうか?」

私は正直なところ分からないけれど、仕事の現状に関しては前向きでいると答えた。

「では小切手を出されましたら、現金に換えましょう。」ウィリアム氏が言った。

私は完全に言葉を失った。

「住宅市場の査定に関しては、あなたのお父様のおっしゃる通りです。とても長い間停滞状況が続きましたが、ここ数年で高騰するだろうというご意見には私も賛成です。では、650ポンドの当座貸越額を融通させていただきましょう。これで住宅ローンの前払金と弁護士の手数料がまかなえるはずです。資産の詳細をいただければ、必要な書類はこちらで作成致します。」

彼は机の向こうで立ち上がると、私をドアまで案内した。

1ヶ月後、私は契約を交わし、ウェスト・ハロー、ヴォーン街にある家へと引っ越したのであった。

ウィリアムス氏のオフィスから出た瞬間から、セッションの仕事が殺到し始めた。それは絶好のタイミングであった。というのは、デイヴは次のアルバムのための新曲作りに忙しくなっていて、ライヴの数も大分抑えている時期になったからだった。

約1ヶ月後、ストローブスは私が参加してから2作目となるアルバムを作るために、スタジオ入りできる状態になっていた。そこで初めてメンバー間の意見の食い違いが表面化したのだった。ハッドとジョンも良い作曲家だったが、デイヴとは完全にスタイルが違っていた。その結果アルバムに用意された曲は、あまりにバラバラなものに思えた。“ザ・シェパーズ・ソング”と“ア・グリンプス・オブ・ヘヴン”を除くと、音楽的に私が貢献できる部分はあまりないと思った。事実私は、期待されていたほどにはアルバム作りに協力しなかったのだった。

私は出来るだけ多くのセッションを受けることにした。だからストローブスのアルバム作りでスタジオに入って作業することができなくなっていた。カレンダーは次々に仕事で埋まり、増え続ける仕事量の前ではストローブスのアルバムは二の次になってしまっていた。

私は少なくとも日に2回、可能ならそれ以上のセッションをこなした。このことはバンドの中に軋轢を生んだ。バンドは私の外での仕事を考慮して、アルバムのキーボード・パートの録音を調整しなければならなかったからだ。そうは言っても、私は特に“ア・グリンプス・オブ・ヘヴン”、“ザ・シェパーズ・ソング”、“ザ・ハングマン・アンド・ザ・パピスト”といった曲での演奏を心から楽しんだのだった。アルバムは「フロム・ザ・ウィッチウッド(魔女の森から)」というタイトルになり、賛否両論を受けることとなった。

1971年、私は一流の作曲家、演奏家、プロデューサーたちとスタジオで仕事をすることの喜びを知った。そのリストは音楽産業のあらゆる領域のアーティストで一杯であった。私がレコーディングで演奏したのは、何人か挙げるなら、シラ・ブラック、ルー・リード、ブラック・サバス、キャット・スティーヴンス(彼の伝説的な名曲“モーニング・ハズ・ブロークン”も含まれる)、デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、メアリー・ホプキン、アル・スチュアート、クライヴ・ダン、マーク・ボランといった人たちであった。

中でも忘れられないのが、デヴィッド・ボウイの「ハンキー・ドリー」のレコーディングである。 

デヴィッドはベカナムにある自宅に私を招待してくれた。そこは今まで見た中で一番大きな家だったので、私は“ベカナム宮殿”と名付けた。彼は自慢げに生まれたばかりの息子ゾウイを紹介し、私たちは大きな居間でくつろいだ。そしてデヴィッドがケースから12弦ギターを取り出した。

「新しいアルバム用に書いた曲を、いくつか聴かせて上げよう。」彼は話し始めた。「君にはピアノで弾けるようになって欲しいんだ。その後今度は君のスタイルでこの曲を私に聴かせてくれないかな。ギターの視点に代わってピアノの視点から、このアルバムを見てみたいと思ってるんだ。」
 
それから彼は、私が自分の人生でこれまで耳にしてきた中で最高の曲を数曲、一気に聴かせてくれたのだった。私がその晩に感じた喜びに匹敵するような、素晴らしい夜を経験した人なんて、たぶんいないだろうと思う。

私は“ライフ・オン・マーズ”や“チェンジーズ”といった曲が、まだ生の輝きに満ちた状態で聴けるという栄誉を与えられたのだった。スタジオに入ってそれらをレコーディングするのが待ち遠しかった。

ロンドンのトライデント・スタジオでのレコーディング初日は、私のセッション歴に中でも最もとっぴな1日となった。“ライフ・オン・マーズ”が最初にレコーディングする曲だったが、数回通し練習をしたところで、デヴィッドのバンドが練習不足なことが明らかになった。1時間半ほど“らちがあかない”状況が続いた後、デヴィッドは階段を下りてスタジオにやって来くるとバンドに言った。

「このアルバムの曲を練習するのに2週間あったんだ。君らが貴重なリハーサルの時間を無駄使いしているのは明らかだ。君らは僕の時間も無駄にしている。トニーの時間も。」彼はピアノのところに座っている私を見た。「そしてリックの時間もだ。」

私はできるだけ目立たないように、ピアノの鍵盤を見ていた。大目玉はまだ続いていた。

「楽器を全部片付けて家に戻って、すぐにリハーサルを始めるんだ。曲を覚えるのに1週間やろう。イヤなら1人残らずクビだ。」

彼は私の方を見た。

「リック、済まなかったな。コントロール室まで来て、トニーとちょっと話をしないか?」

私がドアをくぐるとトニーはコントロール卓の後ろに座っていた。彼は基本的にデヴィッドが言ったことと同じことを言い、翌週にまたセッションできるように私のスケジュールが調整可能か聞いてきた。それは私にはそれほど大きな問題ではなかった。翌週、私はトライデント・スタジオでピアノのところに座っていた。驚くほど練習を積んできたバンドと一緒だった。

※      ※      ※

1971年7月は、かつてないほどの、そしてまた今後もないであろう、最も困難な音楽的決断を余儀なくされた時であった。

私はすでにストローブスを辞める決心をしていた。それは純粋に経済的な理由からで、フルタイムでセッションをする生活に戻れば、定期的にそれまでの4倍の稼ぎを得ることができた。そのころ私の音楽経歴の次の段階を形作ることとなる2本の電話があった。

最初の電話はデヴィッド・ボウイからだった。その日の夜にハムステッドのクラブで会って、ちょっとした提案について話し合いたいというものだった。

デヴィッドはそのクラブで、自分とギターのミック・ロンソンとで驚くべき演奏を見せてくれたのだった。デヴィッドはそれまで見た中で一番奇抜な服装に身を包んでいて、ティラー・ガールズ[訳者注:1890年にイングランド、マンチェスターで創設され、1890年代に活躍したラインダンス・チーム]のようなヘアスタイルから巨大な青い羽根が飛び出していた。

デヴィッドはそのステージで聴衆を完全に熱狂させると、バー近くのプライベートなテーブルで私と一緒に腰を下ろした。

「今、‘スパイダーズ・フロム・マーズ’っていう名前のバンドを組もうとしてるんだ。」彼は話し始めた。「私はジギー・スターダストと名乗る。君にはバンドの一員になってもらって、アレンジも担当して欲しいんだ。自由な時間を手にすることができるし、私のマネージメントが今アルバムとワールド・ツアーの交渉中だから、金も悪くないはずだ。」

私は信じられないほど嬉しかった。大好きだった夜遊びがまたできるし、同時に住宅ローンを支払うだけのお金を稼げる!デヴィッドは2〜3日考えてから電話をくれと言った。私はデヴィッドに、素晴らしい話だから言われた通りにしたいとその場で答えたが、デヴィッドは時間をかけて決めるように主張したのだった。

翌日の夜、正確には明け方の3時に、別の電話が鳴った。それはイエスのクリス・スクワイアからのものだった。

私たちはハルで行なわれたライヴで、ストローブスがイエスの前座として出た時に一度会っていた。 その場にとどまって彼らのステージを見ていて、彼らのサウンドにとても感銘を受けたのを覚えている。それは当時の他のどんなバンドともまったく異なっていたのだ。彼らはまた見た目も異なっていた、いやはっきり言えば、変だったと言えるくらいだった。

当時ほとんどのバンドは背の高い、ハスキーな声のリード・シンガーを擁していた。ジョン・アンダーソンは小柄で、地声の高いシンガーだった。ザ・フーのジョン・エントウィッスルを除けば、ベース奏者というのは裏方の職人だった。でもクリス・スクワイアは違っていて、高音域が強調されたベースは、今まで聴いたこともないメロディアスなベース・ラインを奏でていた。ビル・ブルーフォードは、普通のドラマーなら汗だくになっているのが当たり前なのに、ドラムを叩くことに対してとても冷静でいるように見えた。そしてスティーヴ・ハウは、私にとってはエリック・クラプトンとは違った音を出す初めてのギタリストだった。恐らくバンドの中で標準的と言えるのは、オルガンのトニー・ケイだけだった。公正な立場で言うならば、その音楽に於いて彼には主役の座は与えられていなかったと思う。

クリスとの会話の出だしを今でも鮮明に覚えている。私は夜遅くのセッションを終えて夜中の2時くらいにやっと家に帰ってきたところで、朝の7時には起きてロンドンに行かなければならなかった。電話が鳴ったとき、私は熟睡していた。

受話器を取ると、私は何とか苦労して身体を起こした。 

「もしもし」私は声を絞り出した。
「もしもし、やあ、僕はクリス・スクワイアだ。前に一度会ったことがあるよね、覚えてるかな、ハムに行った時にね。それはともかく、今ちょうど最初のアメリカ・ツアーから戻って来たところなんだけど、皆で話し合って、もっとオーケストラ風なキーボードを導入したいってことで一致したんだ。君のインタビュー記事をいくつか読んだり、君の演奏を聴いたりして、僕ら全員の目的を達成するには君は最高のミュージシャンだと思ったんだ。どうだろう?」
「今何時かな?」
「ええと、3時10分過ぎだ。」
「7時には起きなきゃなんだ。」
「じゃあ、明日かけ直そうか?」
「そうして欲しい。」

会話はそれで終った。 

翌日私は夕方6時に帰宅した。クリス・スクワイアから電話が欲しいというメッセージが4件入っていた。イエスのマネージャー、ブライアン・レインからも2件入っていた。

クリスに電話すると、ブライアンがメイフェアの中心部にあるサウス・ストリートの彼らのオフィスで、打合わせを持ちたがっているとのことだった。翌日朝一番に私はブライアンに電話を入れ、私とジョンとクリスによる打合わせが行なわれることになった。さらにその翌日には、互いに上手くいくかどうかを見るためのリハーサルも行なうことになった。私はそれで何も失うものはないと思いながら、約束の時間きっかりにリハーサル室に到着した。

このリハーサルから“ラウンドアバウト”と“ハート・オヴ・サンライズ(燃える朝焼け)”が生まれたのだった。私は喜びに満ちていた。バンドの音楽的才能は驚異的であり、このバンドは成功すると思った。私は彼らと仕事がしたかった。

どうやって今の自分の希望をストローブスに伝えたものかと思案しながら、私は家に帰ってきた。そして私の帰宅を別の問題が待ち受けていた。デヴィッド・ボウイのオフィスから、私がスパイダーズ・フロム・マーズを率いる決心がついたかを確認したい旨のメッセージが入っていたのだ。

私はその夜、袋小路にあるアポロというパブで、自分が抱えたジレンマにどう結論を出したものか考えていた。まずイエスかボウイかを選ばねばならない。私はイエスを選んだ。それは単純に私がバンドの中で他のメンバーと対等の立場にあり対等のチャンスを手にしているからであった。さらに付け加えるなら、その日のリハーサルで一緒に作り出した音楽がとても素晴らしいものであったからだ。デヴィッドの方はと言うと、私は常に彼のバンドの一員であった。彼との仕事はとても楽しかったが、私はもうそのやり方ではやっていけないとわかった。翌日私はデヴィッドに電話し、決心した内容を直接彼に伝えた。彼は私の成功を祈ってくれて、それ以来今でも2人は友人であり続けている。間違いなく私は彼との仕事からは多くの事を学んだし、「アブソリュート・ビギナーズ」での彼との最後の仕事を、今でも心から楽しく思い出すことができるのだ。

ストローブスとの最後の仕事は、7月の最終週に「ザ・ジョン・ピール・ショー」というBBCのラジオ番組用のレコーディングであった。ショーが終わるとイエスのライトバンが機材を運ぶためにやって来て、私のハモンドが積み込まれていった。それを見ていると不思議な感じがした。今だから白状すると、デイヴ、トニー、ハッド、そしてジョンと最後に握手をした後、私は家まで帰る車の中で少し泣いたのだった。

私はメロディー・メーカー誌において、12ヶ月の内に2度目の表紙を飾った事を2日遅れで知った。今回写真の上に書かれた大見出しは簡潔だった。「ウェイクマン、イエスに加入」。