2013/02/07

1 始めにピアノありき

まだとても小さかった頃のことを覚えているというのは驚くべきことである。信じられないような話だが、私は自分がハイハイしていることを覚えているのだ。まだ前に進むことができなくて、後ろに進んでいった私は、ロンドン北部にあった両親の小さなセミ・デタッチハウス[訳者注:1棟2軒の家。1棟で玄関が別々にある英国の住宅。左右対称な造りになっている。]の台所の食器棚のところで動けなくなった。

そこで私は決まってそこで泣き声をあげたものだった。

私は最初の三輪車を手にしたことも鮮明に覚えている。その最初の三輪車から落っこちたことも鮮明に覚えている。本当にその三輪車が大好きだったのだ。父のシリル・フランク・ウェイクマンは新品を買う余裕はなかったので、1953年のクリスマスに間に合うように中古でその三輪車を買い、分解し、フレームにペンキを塗り直し、すべての駆動部分に油を注し、最後に再び組み立てて、私にプレゼントしてくれたのだった。

多くの幼い子どもたち同様に、私はクリスマスが大好きだったしサンタクロースの存在を真剣に信じていた。 実のところ私は見たこともない二人の人物の存在を信じていた - サンタクロースと神である。七歳になった時、サンタクロースはそのリストから消された。神だけが残った。

サンタクロースが消滅する2年前、 私はミドルセックス、ノースホルトのウッド・エンド・インファンツという幼稚園に通い始めていた。ほぼ同時期にサウス・ハロー・バプティスト教会の日曜学校にも行き始めた。どちらも好きだったが、スリッパを履かないで良かったのと行儀が悪くても手の甲を定規で叩かれなかったので、日曜学校の方がより好きだった。

私の家族は言わば敬虔なキリスト教徒一家であった。父はロンドンにあるウエスト・エンド・バプティスト教会で執事[訳者注:牧師の補佐]をしていた。父方の祖父はバプテスト教会の地方説教師[訳者注:特定地域でのみ説教することを任されていた平信徒]で、母ミルドレッドは、メソジスト信者として育ったのだが、私と同じ教会に通っていた。

日曜日はいつも特別な日だった。母と私は1マイル半ほど歩いてサウス・ハロー・バプティスト教会に行き、父はハマースミスにある自分の教会へと行く。そこは人生のほとんどを捧げた場所だった;そしてそのことが、私が思うに、教会との強い繋がりや、信奉するという感覚を考える上でカギとなることだったのだ。

日曜日はまたコメディーに慣れ親しんでいく日でもあった。残念なことに今は無くなってしまったBBCの「ライト・プログラム」[訳者注:BBCのラジオ・ステーションで、後にBBC Radio 2と改名]の「ビリー・コットン・バンド・ショー」 が“サムバディ・ストール・マイ・ガール”と“リージョン・パトロール”の音楽で終ると、ラジオの針は「ザ・ネイヴィー・ラーク」、「クリゼロー・キッド」、「ラウンド・ザ・ホーン」、「ビヨンド・アワー・ケン」などの名作群に切り替わる。今日まで私の心の中に残っているその世界の中で、私はケネス・ウイリアムス、ケネス・ホーン、ビル・ペートウィー達にすぐに感情移入したのだった。

私たちは1956年頃に始めて最初のテレビを手に入れた。その四角い箱に“取って替わられる”までは、日曜日の最後にやって来るのは音楽の夕べであった。 父の兄弟のスタンは、ウクレレを持ってきてはピアノを弾く父と一緒に演奏したものだった。母も、“歌う”というほどではなかったがそれに加わった。後にいとこのアランがクラリネットとサクスフォーンで加わり、彼の兄弟のキースがバイオリン持って来た。音楽の夕べの終わりを告げる鐘となり、お隣の家の外に「売り家」と表示される原因となったのは、そのバイオリンと母のボーカルによる“ネリー・ディーン”の演奏だったように思うが。

私はこの音楽の夜会に魅了されていて、寝かされても起き上がってはこっそり階下に行き、 会が催されている居間のドアのところで聴いていたものだった。だから父が私に、とても評判だったドロシー・サイムズ夫人のピアノ教室に通って良いと言われた時は、天にも上ぼる心持ちだった。

ここがスターダムに続く道の最初の段階であった。「サンデー・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラジウム(ロンドン・パラジウム劇場の日曜の夜)」[訳者注:イギリスのバラエティー・ショー番組])ではなく、「ミドルセックス、ノースホルト、ウッド・エンド・ガーデン19番地の居間の日曜の夜」である。 

私は最初のレッスのことを覚えている。私はとても興奮していて、同時にとてもおびえていたのだ。まだほんの6歳だったのだ。小さな離れでコートを掛けて、サイムズ夫人が待っている音楽室へ続くドアを中に入っていったのだ。

「こんにちは、リチャード。」彼女は言った。
「サイムズ夫人、こんにちは。」
 
最高に心躍る会話とは言えなかったことは認めるが、しかし新しい関係はとにかくどこからか始めなくてはならないものなのだ。

その後の15年間、サイムズ夫人は両親を別にすれば私の人生おいて最も大切な人物となった。彼女は音楽を教える素晴らしい才能と同じくらい忍耐力も持ち合わせていた。実際のところ、つらつら思い返し正直に告白すれば、彼女は私に関しては忍耐力をより必要としていた。私はまさに悪夢のようなものだったからだ。

最初の頃は何も問題はなかった。私は練習が好きだったし、とても早く上達した。ほんの数週間後には、私は日曜の音楽の夕べに参加することとなり、“Buy a Bloom”という曲を11秒間演奏してデビューを果たした。母は台所でお茶を入れていて、叔父のスタンはウクレレのチューニングをしており、父は曲選びをしていたという穏やかな無関心に合いながらも、それでも私は幸せな気分で床に入り、自分が将来何になるか確信していた。私は音楽家になろうと思ったのだ。コンサート・ピアニストかたぶん指揮者だったと思う。
 
レッスンは続き、私は最初の演奏会への参加が決まった:正確に言うとサウスホール・ミュージック・フェスティバルという演奏会である。 私はありふれた曲を準備して、緊張しながらサイムズ夫人と両親と一緒に会場に到着した。ホールには30人の有望な候補者が座っていた。審査員は音楽的なものから悪魔のように酷いものまで、それだけの人数分の様々な演奏をずっと聴かなければならないのだ。(私は心の中で将来の音楽関係の仕事から審査員を消したことを覚えている)。

一時間後、私たちは皆演奏を終えていた。憔悴し切った審査員がよろよろと前に出てきた。彼はボソボソと拍子や運指法や練習のことを話し続けた後、点数の発表となった。

「1番…ジャネット・ウイリアムス、78点;2番…バリー・ハイアムス、82点;3番…」という具合に発表は続いた。私は辛抱強く私の番号の22番が来るのを待った。
「21番…マージョリー・トマソン、83点;23番…ジョン・デイヴィッドソン、79点。」

私はひどく混乱した。私はサイムズ夫人の方を見て「彼は僕のことを見落としちゃったよ。」と口元で伝え始めた。しかしサイムズ夫人はただニコニコしているばかりで、私にじっと座って静かにしているようにと身振りで合図した。

「22番…リチャード・ウェイクマン。」

私は座りながら硬直した。恐怖におびえ、彼が私を八つ裂きにしようとしていると確信した。 だってそれより他に彼が私を結果発表から外した理由があるはずがないじゃないか?

「これほど若いにもかからず、すべての面において素晴らしい音楽的パフォーマンス。」
(私は十歳だった。)
「彼こそ88点を獲得した疑う余地のない優勝者です。」 

サイムズ夫人と両親は顔を輝かせた。私は口がきけないほど驚いていた。

「彼は数週間後にある優勝者コンサートでもトロフィーを勝ち取るでしょう。」そうサイムズ夫人は言った。

続く10ヶ月は、もの凄いスピードで物事が坂を登っていった。私は演奏会に次々に出場し勝ち続けた。私は自分が難攻不落だと感じていた、つまり自信満々な若者だったっていうことだ。

そしてバブルが弾けた。
ウインブルドン・ミュージカル・フェスティバル。
私は三位になった。
泣いた。
私はマッケンロー[訳者注:ウインブルドンで三回の優勝を誇るアメリカのテニス選手]をも圧倒するほどのかんしゃくを起こした。私はひどく落胆したのだった。
 
私はサイムズ夫人が父に話をしているのを立ち聞きしたことを思い出す。

「これでやっとホッとしましたわ。そろそろ一度負けるだろうと本当に思っていたところでした。でも不幸なことにこれほど長い間の後では、彼はすべてを勝ち取れる天与の権利を得ていると思っていながら、それが否定されてしまったことになりますね。実のところ私は彼を、もっと年上の子たちのグループが集まる今までより難しい演奏会に入れ始めていたんです。そのことはきっと彼を現実に目覚めさせることになると思いますから、心配しないで下さい。彼ならきっと乗り越えてくれますから。」

しかし「彼」は乗り越えなかったのだ。
私は優勝することが好きだったのである。

私は前にも増して一生懸命練習したが、それでも参加したすべてで優勝することは出来なかった。私は本当に分不相応に優勝していたのだった。思うにそれは色々な感情が交じり合った体験だった。私は前で演奏するときの聴衆が好きだったし、ピアノも好きだった。

しかしながら、13歳になる頃には物事は脇道へと逸れていった。他のものが私の生活に影響を及ぼし始めたのだ。異性の魅力は高まり続け、サッカーとクリケットがピアノの練習時間を浸食する二大活動領域となった。

ピアノの練習がその被害を被り私の興味が他に向けられて、明らかに進歩が滞り始めたことで、サイムズ夫人は眠れぬ夜を過ごしたに違いなかった。

学年末試験に向けた計画において、私は実技でも理論でも遅れを取っていた。だから彼女は、もし私が王立音楽大学(Royal College of Music)に入学するという目標を達成するつもりなら、もっと熱心にそして今まで以上に一生懸命取り組まなければならないと、状況を明快に私に示してくれた。

(今なら百個以上あった消しゴムのありかを初めて告白するには絶好のタイミングであろう。それらの消しゴムが音楽理論クラスから4年間以上に渡って不思議にも紛失したことは、サイムズ夫人をたいそう困惑させたのであった。マルコム・ベルと私はクラスが終るとありったけの消しゴムをポケットに詰め込み、サドベリー・ヒル駅のそばの橋に腰掛けて、通り過ぎる蒸気機関車の煙突めがけてそれらを投げつけたものであった。煙のひどさでゴホゴホ、コンコンと咳き込んだりしながら、すぐに橋から飛び降りなければならなかったのだが。 )

サイムズ夫人は父に熱意のこもった嘆願を行なった。「彼はあなたのお金と私の時間を無駄にしています。彼にはもっと上に上がれるだけのもって生まれた才能があるというのに、なんてもったいないことでしょう。」
 
私は大分後になってやっと、この時父がどれほど賢く状況に対処したかが分かった。彼は実に気さくに私にこう言ったのだ、「冬にはサッカー、夏にはクリケット、教会の青少年クラブに男友達グループと、お前は今やるべき事がたくさんあるということは分かっているよ。だからピアノは止めた方が良いだろう。お前は練習もきちんとやっていないし、サイムズ夫人も時間の無駄だと言っている。残念だよ、本当に。夫人もお前には才能があると言っていたし。しかしまぁ、お前はいつピアノを止めるのか教えてくれないか。そうしたら私は夫人に電話しようと思う。」

こう来たのである。
私は、どれほど本気で取り組まなければならないかなどと、叱りつけられるだろうと予想していたのだが、父は基本的に自分も他の誰もそんなことは知ったことではないと言ったのだ。そこには私のやる気に火をつける巧妙な刺激が潜んでいたのだった。

自己分析の末に私は目の前に困難な課題が存在していることに気づいた。私は学校でも遅れを取っていた。王立音楽大学に出願するには、少なくとも2つの上級評価が必要だった [訳者注:当時の中等教育修了共通試験では、科目別の選択試験で普通級『O level』、上級A level、学問級S level]の3段階があった]。加えてピアノの最終評価で優秀な成績を上げ、さらに副科でもまずまずの成績を取らなければならなかった。副科楽器はクラリネットだった。

私は精一杯熱心に取り組み、17歳になるとベストを尽くすようになった。

上級評価が問題だった。私は3科目の授業を受けていた:「音楽」、「芸術」、そして「イギリス憲法」(政治)であった。

「音楽」は簡単なはずだったのだが、実は3つの種類に分かれていたのだ:「音楽理論」(問題無し)、「オーラル」(問題無し)[訳者注:“Aural”、音楽を耳で捉える訓練]、そして「音楽史」(大問題)であった。 私は作品群をきちんとは知らなかったし、概要を述べられるほどには各時代を学んではいなかったのだ。

私の音楽の先生だったウィリアム・エレーラ氏は、この授業で落第するだろうと確信していた。それはつまり、少なくとも全部の授業で及第点は取らなければならない試験全体で、落第するということだった。 私たちは試験前の3週間にわたり激しい口論を行なった。彼は私が彼や他の生徒たちの時間を無駄にしていいて、答えをすべて教えてもらったとしても及第点は取れないと言った。

もちろん彼は正しかったが私は彼に反論し、その結果彼は、私が及第点を取れない方に10シリング(50ペンス)賭けることになった。

10シリングは1960年代後半当時の私には大金だった。現在の10ポンドぐらいの価値であろうか。

私は2年間の勉強内容を3週間に詰め込んで、昼夜を問わず勉強に励んだ。 そして結果をどきどきしながら待った。どちらかに決まるしかないのだ。

ウィリアム・エレーラ氏はどうなったかって?

50代後半のウィリアム氏は結局5年生だった女生徒とスペインへ駆け落ちし、そこで死ぬまでの10年間暮らしたのだった。彼を知っている人はみんな信じている、彼の死は私によって引き起こされた憤慨と、若き奥方によって引き起こされた肉体疲労の組み合わせによるものだってね!

2番目に挙げた上級評価科目「イギリス憲法」。私たちは担当の先生から、すべての答案はかなり左翼傾向の強い教授らによって採点されることになりそうだから、見解を聞かれる問題にはどう答えるか気をつけるようにと注意された。

私には常にこのような反抗的な性質があるのだが、今でもどうしてそんなことをしたのか分からないけれど、基本的に最も保守党寄りの宣言書に添った答案を書いたのだ。私はペンを置いた瞬間に落第したと思った。でも満面の笑顔であった。

次は「芸術」だ。試験はこれもいくつかに分かれていて、最後の課題は“かたち”と題された抽象画を制作することだった。 時間は3時間であった。 2時間半経った時、私のゴミ箱は却下されたアイデアで一杯になっていた。まるで悪夢のようだった。

残り15分となり私は絶望した。私は新しい紙を板に画鋲で留め、それを壁にサッと立て掛けるとペンキを投げつけた。ペンキは紙を流れ落ちた。次にインクも投げつけた。おがくずも投げつけた。目に入ったものは次々と投げつけた。そして残り10分になったところで、急いで可能なかぎりの音符をところ狭しと描き込んだのだ、色付きインクを使って。 私は「芸術」のマイク・ウェストブルック先生が私の作り出したものを見て、まったくもって信じられないという顔をしていたのを思い出す。私は完成した作品に解説を添付して帰宅した、パブ経由で。

私は悲しみを酒にまぎらすのに必死だった。すべては涙に終ってしまったのだ。最後の数週間は本当に一生懸命勉強していたが、心の底では余りに遅くまで放りっぱなしだったことはわかっていた

上級評価試験の中で最初に挙げた「音楽」では、私は最終評価に備えてピアノの準備をし、クラリネットの練習をし、最終評価のために音楽理論を勉強し、さらに王立音楽大学の入学試験も受けなければならなかった。

こうしたことと、夜になると地元のパブや労働者クラブでピアノ奏者として働いてもいたという事実を結びつけてみると、なぜ私がそれほど落胆したかが分かるだろう。

王立音楽大学の入学試験の日は、信じられないことに目が覚めたらインフルエンザに罹っていたのだった。私はゴホゴホ、コンコンとひどく咳をしていたが、楽譜とクラリネットを両脇に抱え、ロイヤル・アルバート・ホール裏のプリンス・コンソート・ロードに向けて家を出た。そこでは王立音楽大学の立派な建物が私の到着を待っていたのだ。

ピアノの演奏に関してはとても上手くいったし、良い印象を与えられたと思った。音楽理論も上手くいった。不思議なことに音楽史の試験も上手くいったのだ。分かってはいたがクラリネットが障害となりそうだった。私はすでにすでにクラリネットなんか好きになるものかと心を決めていた - アッカー・ビルクの“ストレンジャー・オン・ザ・ショア(Stranger on the Shore)”が大いに関係していたと思うが - だから本当に練習をしていなかったのだ。私のレベルは要求される高さには程遠く、失望することも恐らくそれだけの犠牲を強いられることも分かっていた。

クラリネット“面接”を受けるための部屋に、私は震えと鼻水と咳を伴いながら近づいていった。 ノックをすると、「どうぞ」という素っ気ない言葉が返ってきた。 机の向こう側に3人の男の人が座っていた。部屋の中にあるのはイスが1つと譜面台が1つだけだった。
 
「ウェイクマン君で間違いないですね?」
「はい」私はくしゃみと咳をし、“トランペット・ボランタリー”の曲のように鼻を鳴らしながら返事をした。
「大丈夫ですか?」1人がそう尋ねた。
「あまり大丈夫ではありません、」私は答えた。「インフルエンザで最悪な状態なんです。」
「う〜ん、となるとクラリネットを吹ける状態ではないですね。それならとにかく座って下さい。君には君の演奏のことでいくつか質問をしよう。それで十分でしょう。」

私は喜んで腰を下ろした。
「君のクラリネットの音がどんな感じか説明してくれるかな?」真ん中の教授が尋ねた。
「ひどいものです。」私は正直に答えた。
彼らは静かに笑った。
「君はウィーバーのコンチェルティーノを知っていますか?」
「はい。演奏はできませんが、でも知ってはいます。」
彼らはまた静かに笑った。
「君はオーケストラ楽団員ぐらいのレベルかな?」
「はい。学校オーケストラのレベルです。」
大爆笑。
「ありがとう、ウェイクマン君、これでもう良いだろう。」

私は複雑な心境で地下鉄ピカデリー線の電車に腰を下ろした。恐らく私はクラリネットに関しては正直過ぎた、そう思うと私は本当にがっくりきてしまった。他の分野ではどれも上手くできた自信があった;自分に腹が立って仕方なかった。

最初の上級評価試験の少し前に、ロイヤル・アカデミーから手紙が届いた。必須である2つの上級評価を獲得し8科目の学年試験に合格すれば、入学を許可するというものであった。

信じられなかった。考えられるのは、私はピアノ演奏の迫力で入学が許可されたのであり、明らかなクラリネットの力不足は特別に許してもらえたということであった。

私は8科目の学年試験も合格したので、すべては上級評価試験の結果次第ということになった。

本当のところチャンスはほとんどないと思っていた。「音楽史」に関しては真剣に努力したが、 心の底では合格するほどには至っていないと感じていたのだ。「イギリス憲法」は合格の見込みはない。「芸術」も同じだ - そうさ、現実を直視するんだ、公衆トイレの壁の落書きの方がもっとマシなくらいだろう。

8月になり、郵便局は試験結果が同封された大量の手紙を、国中の生徒の家へと配達した。 私はマットの上に落ちていた茶色い封筒を、永遠と思えるくらい長い間見つめていた。両親は仕事でいなかった。

ようやく拾い上げると小さな台所の中で腰を下ろした。封筒はテーブルから私を見上げていた。

私は封を切り、何十年にも人の経歴を作りまた壊してきた小さな紙切れを取り出した。 

1960年代には評価は以下の通りだった:A、B、C、D、そしてEは合格、Oは上級評価試験で普通級合格、そしてFが不合格。

細長い紙切れの一番上には私の名前と学校名のドレイトン・マナー・カントリー・グラマー・スクールの文字。そしてすぐに上級評価試験の結果が書かれていた。

イギリス憲法 F(当然のことだ) 
音楽     E
 
信じられなかった。合格していたなんて。ほとんど勝ち目なんか無かったのに。心臓が大きくそして速く鼓動していた。私は完璧に当惑しながら紙から目を逸らし、再び目を戻して最後の結果を見た。

芸術     C

C!いったい誰が成績を付けたんだ?ピカソの兄弟か?誰だってかまわない!私は有頂天だった。父と母のそれぞれの職場に、そしてサイムズ夫人にも電話を入れた。2日後、郵便受けから一通の封筒が落ちていた。中には10シリングの新札が入っていて、手紙にはこう書かれていた。

リチャード君へ
わが人生に於いて、これほど幸せな気持ちで10シリングを渡したことなどなかったよ。 願わくば君が、1人で本当によく頑張ったんだということと、こんなことは君の人生に於いて二度と起らないだろうということをわかってくれると良いと思う。
成功を祈る、

          ビル・ エレーラ

今日までその手紙を残しておければ良かったんだが。 
 
 ※   ※   ※

大学での最初の1週間は、控え目に言ってももとても愉快だった。もちろんいろいろなことが次第に大変になっていくだろうとは思っていた。私は家から通っていたので助成金はたった37ポンドで、それは買いそろえないといけない書物の出費をカバーできほど十分な額ではなかった。再び父が助け舟を出してくれた。そして大抵の10代の若者と同じように、当時の私は私が音楽教育を受け続けるために彼がどんな犠牲を払ったかなんて、知るよしもなかったのだった。

前期の最初の日がやって来た。私は歓迎会が催される本堂へ出向いた。来賓演説者は“同窓生”のユーディ・メニューイン[訳者注:アメリカ出身のユダヤ系ヴァイオリン&ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。]であった。

彼は学長であるキース・フォークナーによって紹介された。その偉大なる音楽家は演壇へと向かい、向き直るとそこに集まっている群衆を見据えた。 そして逆立ちをしたのだ。

彼はそのままの姿勢で15分ほどじっとしていた。一言もしゃべらずに。変な忍び笑いをもらした学生達は、非難の混じった視線を受けた。ようやく彼は身体を戻して2本の足で立つと20分間ヨガの講義をしたのであった。

以来私は彼の心の健康をずっと案じているのである。

次にやることは、男子学生用カウンセラーのジレット氏から担当教官一覧を受け取り、個別に教授のところへ行って、いつ個人レッスンを行なうかという計画を立てるという作業であった。

私はピアノ指導教官にアンソニー・ホプキンス氏になって欲しいと切望していたが、そんな幸運はやってはこなかった。私の担当はアイリーン・レイノルズ夫人というローデシア人女性であった。私は彼女と彼女のレッスン教室で会った。

彼女は私が気に入らないようで、私も彼女の教授方法がまったく好きになれなかった。彼女はサイムズ夫人とは態度の面でも理解力の面でもまったく違っていた。強い嫌悪の関係が瞬く間に出来上がった。レイノルズ夫人の中間試験は決して合格しないだろうと思った。だから大学には内緒で個人的にサイムズ夫人のところへ戻ったのだ。彼女は見事に私を指導してくれたのであった。
 
しかしながら、私に関して言えばレイノルズ夫人にも秀でた部分があった。それはある朝のこと、私の連絡箱に1枚の紙切れが入っていた。そこには男子学生用カウンセラーのジレット氏のところへ行くように書かれていた。
 
ちょっと冗談を交わした後、彼は私に言った、「君の毛皮なんだけど。」
「僕の何ですって?」私は聞いた。
「君の毛皮だよ」彼は私の髪の毛を触りながら繰り返した。「レイノルズ夫人と今日会った時に、これが好きじゃないって言ってたんだ。長過ぎるから切って欲しいって。」

「あのアマ」という言葉が最初に心に浮かんだが、有り難いことに口には出さずに済んだ。実際私の髪は襟にすら届いていなかったし、長くしようなどともまったく思っていなかったのだ;不思議なことにまさにその日髪を切ろうと思っていたのだが、このジレット氏とのばかばかしい立ち話は、私を激怒させた。

「ジレットさん。失礼ながら私の外見がこの大学での私の学業に、いったいどれほど影響を及ぼしてるのか皆目わかりません。私はとても良い成績で中間試験をクリアしているし、講義だって1回も欠席していない。現代音楽と管弦楽法の特別授業にも出席していて、とても真面目に勉強しています。それに聞いたらびっくりするかもしれませんが、今日の午後アントニー・ホプキンス氏の音楽の技法に関する講義の後、僕は本当に髪の毛を切ろうと思っていたところだったんです。」
「そうか、それならもう一件落着だね。」
「いいえ、そうはなりません、ジレットさん。レイノルズ夫人に伝えて下さい、僕は今日の午後髪を切るのを止めましたと。」
「それならいつ切るつもりなんだい?」
「もう切るつもりはありません。」

そして実際私は髪を切らなかった。 それも五年もの間。 感謝します、レイノルズ夫人。  

クラリネットの先生はバージル・チャイコフ氏であった。私は当惑した。彼は有名な教授であり、普通なら上級レベルの才能豊かな学生しか取らないのだ。 なぜ私なんだ? 私は用心深く彼の部屋に近づくと、返事を待って中に入った。

「ウェイクマン君、さぁ入って。君に会えて嬉しいよ。」

バージル・チャイコフしは愉快で友好的な人物で、見るからに私に会えたことが嬉しそうだった。 私は気持ちが落ち着いてきた。

「君が生徒になってくれて嬉しいよ。」彼は言った。
「普通なら副科生は取らないんだが、君に関する報告書が素晴らしかったので、君を取らなければと思ったんだ。」

私は気持ちが落ち着かなくなった。

「今何と?」
「報告書には、君は試験では実際には演奏できなかったが、明らかに上級レベルの高い技術を持った演奏者だと書かれているんだ。そこには君が非常に謙虚で明るく愉快な性格を持ち合わせている、ともある。」

私は秘かに思った、彼はそれがおかしいとはすぐには分からないだろうと。試験会場のことを思い出すにつれ、何が起こったのかが次第に明らかになってきた:私の正直さを彼らは謙虚さだと誤解したのだ。そして入学試験の他の科目が高い成績だったことで、私のクラリネットの演奏能力も間違いなく同じ程度であろうと判断したのである。

私は最善を尽くしてバージル・チャイコフにこのことを明らかにしようとした。彼の顔が次第に青ざめ始めた。私が部屋に入った時にあれほど明確だった暖かで優しい感情の高まりは、そのほとんどが失われてしまった。

「本当に君はそれほどまでにひどいということなのか?」彼は祈るようにそう尋ねた。
私はゆっくりとうなずいた。

それでもまだ少し信じられないらしく、彼と私は2日空けてから最初のレッスンをする約束を交わしたのだった。

それは私の人生で一番長い2日間となった。

王立音楽大学での最初の数日間で、私はジョン・マクダーモットという学生と友達になった。彼はランカシャーのダーウェンから来ていた。彼の専攻楽器はフルートだったが、それよりも重要だったのは、彼の父親がスウェイツ・ビール会社の上級代表だったということだ。夏の間私はジョンと彼の父親と一緒に労働者クラブをはしごして、幸せな毎日を送った。スウェイツはオールド・トム[訳者注:Thwaites' Breweryが出していたのは“Old Dan”で、“Old Tom”はライバル会社Robinson’ Breweryの商品。リックの記憶違いと思われる。]という致死的な酒を出していた。私はオールド・トムの虜になった。

大学には98の練習室があり、各部屋にはピアノと譜面台などが備え付けられて、昼間学生たちが講義のない時に練習したり、個人授業を受けたりする時に使われていた。目と鼻の先にはクイーンズ・アームズという名前のパブがあり、そこは言わばこの大学“専用”のお店だった。当然のようにこの飲み屋は“99番教室”として知られていて、私とジョンが“練習”に何時間も励んだ場所であった。

そうこうするうちに、バージル・チャイコフとの最初のクラリネットのレッスンの日がやって来た。

私の個人的アルマゲドン[訳者注:キリスト教「ヨハネの黙示録」に書かれている善と悪の最終決戦]までに2日間、私はその楽器を本当に良く練習したのだ。しかしほとんど進歩はなかったと言わざるを得ない。以前は1日30分ほどしか練習をしなかったのだ。だから2日で8時間も練習したことで、私の唇はアル・ジョルソン[訳者注:アメリカの歌手、コメディアン、役者]みたいに腫れ上がってしまった。分かりやすく言えば、唇がヒリヒリ痛むほどになっていたのだ。

私は学生食堂でイスに座り、唇に付けた瞬間にズキンとしみたコーヒーを見つめていた。

ジョンがやって来た。
「リック、頑張っているみたいだな。」
「え?」
「君の唇はまるでひどく殴られたみたいだぞ。」
「確かにな。クラリネットの練習をしていたんだ。今日の午後にバージル・チャイコフ先生のレッスンがあるんだ。覚えておいてくれよ。」

私はクラリネットに関する秘密の話をジョンに聞かせた。ジョンは最初こそ面白がって聞いていたが、やがて私の置かれた立場に深い同情を示してくれた。
  
「飲んだ方が良いよ。」彼は言った。
「最後にはそうするさ。」
「あのなリック、君は緊張でピリピリしてるし、その上その唇はヒリヒリ痛んでいる。スコッチをちょっと流し込めば唇にも良いだろうし、緊張もほぐれるってもんだ。行こうぜ、10時半だからちょうど店が開いたところだ。」
スコッチを最初の1杯飲んだ時には、確かに気分が良くなった。5杯飲んだらもっと良くなっていて、10杯飲んだ後は凄まじく良い気分であった。

「今何時だい?」私はつぶやいた。
「2時15分前だ」ジョンがろれつの回らない舌で返事をした。彼はすでに私に降り掛らんとしている問題には完全に関心を失ったようで、昼食に立ち寄った2人の魅力的なソプラノ女性に馴れ馴れしく話しかけていた。

「何時だって?」
「2時15分前。君のレッスンは何時だっけ?」
「2時だよ!」

その声には少なからぬパニックの響きがあっただろう。私はクラリネット・ケースを引っ掴んで99番教室を飛び出ると大学へ向った。

正直なところ私はリラックスしていた。と言うか、ぐでんぐでんに酔っぱらっていたのだ。大学までのわずかな道をよろめきながら歩き、連絡掲示板を見てその日バージル・チャイコフ氏の授業がどの教室であるか確認した。何とついてないことか、彼の授業は建物の最上階で行なわれるのだ。エレベーターなどない。

私は階段を駆け上がった。そして最上階に着いた時には、ひどく目が回りほとんど立っていられない状態になっていた。 気分も悪かった。ウイスキーの臭いをまき散らしていることにも気づき、回れ右をして病気だというメッセージを残そうかと本気で考えた。でもなぜかはわからないのだが、動物園にいる呆けた動物のように、口をあんぐりと開けたままドアのガラスから中を見ていたのだった。

バージル・チャイコフ氏はこの突然の登場を目にして、心臓が飛び出るほど驚いた。すぐに平静さを取り戻すと、中に入るように手招きをした。 
私はドアノブを回したのだが、それはぐるぐると回るだけ。彼はもう一度私を手招きする。
私はドアを押し開けようとしてみた。
何も起こらない。 

バージル・チャイコフ氏は、私が四歩ほど下がって体当たりの準備を始めたので、驚いて見つめ返してきた。
彼はこちらに進んできて自分の側からドアを開けた。 
「ドアノブを押してから回すのだよ。」彼は言った。

私は中に入った。そこは歯医者よりひどい場所だった。その時は何にも増してひどい場所に思えた。 
酔っぱらっている時の心の働き具合と言うのは面白いものだ。初心者は常に、自分がぐでんぐでんに酔っぱらっていることは誰にも悟られないし、どんなことだってはったりで切り抜けられると確信しているものだ。

今にして思えば、正直なところバージル氏は私の問題を見抜いていたと言わざるを得ない。
しかしその時私は、彼が私の問題を見抜いていたことを見抜くことができなかった。そして茶番劇が始まったのだ。
私は部屋のど真ん中に立つと、自信満々な風を装ってニッコリと笑っていた。きっと頭のおかしなチェシャ猫のようだったに違いない。

「ウェイクマン君、クラリネットをケースから出してくれれば、レッスンをすぐ始められると思うが。」

ちくちょう。へまをしたぜ。それでもなお私は確信していた。彼はこれから指導しようとしている学生が、クイーンズ・アームズのスコッチをほとんど飲み尽くしていたことにまだ気づいていないと。

うめき、うなり、しゃっくりをし、「このパーツをここにはめ込むっていうのは分かってるんだ、違った、こっちか、いや、たぶんこっちのパーツだ」などとバカみたいにつぶやきながら、クラリネットの組み立てに何回か挑戦していると、バージル氏が近づいてきたて、3つのパーツをはめ合わせて1つにしてくれた。

「すばらしい、」私は言った。
「何て言ったのかな?」
「僕はちょっと緊張しているんです、チャイコフ先生。 」私は自分の言葉が聞き取りづらくなっていることが分かっていたが、頑張り続けようと決心した。
 「では音階から始めようか。Gで2オクターブ。」

私はクラリネットを唇にあてがった。リードが上の歯に当たって根元からポキッと折れてしまった。

「チャイコフ先生、リードを折ってしまいました。」
「そのようだね。スペアのリードを持っているでしょ。すぐに交換して。」 
 
これは運命が私に手を貸してくれていると私は感じていた。30分というレッスン時間のうち、すでに半分ほどが過ぎてしまっているに違いないと思ったのだ。リードを交換すればさらに数分が過ぎる。素早く音階練習を数回やればそれできっと終りだ。いいぞ。私は元気が出てきた。
 
リードの交換に何回か挑戦していると、バージル氏が近づいてきたて、私の代わりにやってくれた。  

「すばらしい、」私は言った。 
「何て言ったのかな?」
「僕はちょっと緊張しているんです。」
(なぜ酔っぱらいは同じことを何度も言うんだろう?)
「G音階だよ、ウェクマン君。」
ウェイクマン君は音を3つ出したところで、意識を失った。
 
私は目を開けて続きを吹こうと努力した。頭痛がして気分が悪かったが、音楽が聴こえてきた。
私は教室のソファに横になっており、1人の少女がクラリネットを演奏しバージル氏がすぐ横に立っていた。
 
「そうだ、それで良いよ、フィオナ。ソロパートでの走句[訳者注:急速な音が連続する装飾楽句]に気をつけるんだよ。」
 
彼には私のうめき声が聴こえたようだった。
 
「あぁ。ウェイクマン君がこの世に戻って来たようだ。フィオナ、今日はここまでだ。」フィオナは出て行った。
 
「起きなさい。」
私は起きようとした。
「起きるぞ。」
粘着性のある地面に寝ているんだと思った。
「身体が痺れてしまってるんだな.」
なんて粘着力の強い地面なんだ。
 
私は起き上がり、続いてやってくるであろう猛攻撃に備えた。
そしてそれはやって来た。
それはもう疑う余地のない、言わば賞賛に値するほどのものであった。続く5分ほどの間、ひどい“みっともなさ”と“特権乱用”と“学長への詳細な報告書”が、頭の中で散乱し続けた。
 
すると彼は私に座るように言った。
彼の顔にチラッと微笑みが浮かんだような気がした。
私は彼に何が、そしてなぜ起きたのかを正確に話した。
 
「私も一度同じような経験をしたことがある。」彼は言った。 
私は驚いて呆然としたまま彼を見た。

「劇場のバレーのオーケストラで演奏していた時のことだ。ある部分でクラリネットは15分ほど出番が無かったんだ。だから私たちはオーケストラ・ピットからこっそり抜け出して道を渡ってパブまで行き、素早く引っ掛けてから、次に演奏するのに間に合うようにこっそり戻って来たものだった。それでだ、その時は何も食べていなくて大急ぎで劇場に戻ったのが効いてしまったんだな。静かに自分の席に戻ろうとした時に私はつまずいて転んでしまった。そして譜面台をいくつかひっくり返してしまったんだ。それがまた前にあった譜面台をひっくり返した。トランプの家を壊すような感じだ。もう大混乱だった。」

彼は思い出し笑いをした。

「クラリネットはあまり好きじゃない、ということだね?」 
「本当を言えば、そうです、」私は正直に言った。「つまり下手だということです。」
「そうか、何とかして中間試験には合格できるようにしなければと思うが、君はどう思うかね?」
「先生、全力で頑張ります。」私は答えた。

そして私はその通り頑張った。私は中間試験に合格し、彼はその事件のことは決して口にしなかった。そう、少なくとも私の前ではね!

私は部屋を後にした。階段を上がったところでジョン・ マクダーモットに会った。彼は満面の笑みを浮かべていた。フィオナが彼の隣りに立っていた。

「なかなか上手くいったよ。」私はそう言うなり、階段から転げ落ちたのだった。