2013/02/16

2 希望のバンド

私は物心ついたときからずっと、どのような種類であれ音楽家になりたいと思っていた。警官になりたいとか軍隊に入りたいというような希望を、たまたまある一時だけ持っていた気もするが、そのような立派な仕事であっても、世の中に出て音楽を作りたいという熱い思いを決して抑え込むことはできなかったのだ。

不思議なことだが、恐らく無意識に私の興味をポップ・ミュージックに向けさせたレコードは、スプリングフィールズの“セイ・アイ・ウォント・ビ・ゼア”だった。

私はそのアコースティック・ギターに引き付けられた。曲のある部分で弦をベンディング[訳者注:チョーキングとも言う、弦を押し上げて音程を上げるテクニック]し、コードの3度の音を不協和音にする効果を出していた。結果的に私は“ブルー”ノートに出会っていたのである。私は慌ててピアノのところへ行き、 頭で思い描いたこの音を見つけようとしたことを覚えている。私はその音がどこにあるかを発見したが、鍵盤と鍵盤の間の隙間の下にあるように思えて、演奏することはできなかったのだった。

多分当時12歳か13歳で、この時まではポップス/ロック面での経験はいたって平坦なものだったと思う。ラス・コンウェイの“サイド・サドル”を1年演奏してはいたが、私には大きな意味はなかったし、学校で入っていた伝統的なジャズバンドからは、進歩する喜びを得ることなどほとんどなかったのだ。そんな私を心から興奮させ、またイライラさせるものを、私は突然発見してしまったのである。このブルーノートの音は私をワクワクさせたが、弾くことができないのでイライラもさせられたのだ!

4〜5週間分の小遣いを持って、私は地元のレコードショップに向った。試しに吸っていたロスマンズのキングサイズ[訳者注:タバコの銘柄]は、パイ・ゴールデン・ギニー・レーベルのブルース・アルバムに取って代わられた。

私はできる限りの速さで家に戻って来た。その時すぐに思った。もし小遣いをタバコよりレコードにもっとつぎ込んでいたら、もっと速く家まで走れただろうにと。

ダンセット・メイジャーのレコード・プレーヤーの電源を入れて、使い古しのレコード針がレコードの溝に触れるのをはやる思いで待った。鮮明に覚えているのだが、最初の数曲はひどく退屈だった。まさに中古で売り払ったらいくらぐらいの値がつくかなぁと思っていたその時、その曲は始まったのだ。私はすぐにアルバムカバーを拾い上げ、この素晴らしい曲の名前を確認した。そこには太字で、新しくみつけた自分自身の音楽教育の第2ステージが刻まれていたのだ:デイヴ “ベイビー” コーテッツによる“リンキー・ディンク”。

私はピアノでいろいろと実験をするようになり、あっという間にキーボードでブルーノートもどきな音を出せるようになった。その夜はとても興奮して演奏するものすべてがどこかしらブルー・ノート的になっていた ー いや、もっと正確に言えば、実際にはどこもかしこもだったんだけど。

辛抱強くピアノを教えてくれていたサイムズ夫人は、ハイドンのソナタやバッハのプレリュードやフーガにブルーノートを取り入れることに感銘を受けた様子ではなかった。そしてまた、ハイドンやバッハがそもそもブルーノートを取り入れた曲をなぜ一曲も書かなかったのかを、私に説明することはできなかった。

私は心からワクワクしていた。私はオルガンかピアノが入っているレコードは、可能な限り片っ端から買い始めた。文字通り1枚1枚が私を意気消沈させた。トラッド・ジャズが1963年当時の流行で、3人の“B”が一番人気があったアーティストだった:ケニー・ボール(Kenny Ball)、アッカー・ビルク(Acker Bilk)、そしてクリス・バーバー(Chris Barber)の3人だ。私は学校でブラザー・ウェイクマン・アンド・ザ・クラージメンという名前のトラッド・ジャズ・バンドを友達と共同で設立していた。当時はどのバンドも制服を持っていた;でも私たちは学校の生徒だったからそういったものを作る余裕はなかったので、ワイシャツを前後ろ逆に着て、犬が首輪をしているような感じを出し、ブレザーも後ろでボタンを留めていたのだ。そのバンドはとても人気があって、かなりの回数の学内コンサートで演奏したのだった。

しかしながら、新たな音を発見してからは、私はそれをバンドに取込みたくて仕方なくなっていた。甥のアラン・ウェイクマンは、当時も今も最高のクラリネット/サックス奏者なのだが、モダン・ジャズの道に突き進んでいて、その方向でもバンドに影響を与えていたのだった。モダン・ジャズが嫌いだった(今もそうである)私にとっては、これは厄介な状況だった。しかしアランと私はいつだって最高の友達だったし、結局のところ“心が欲するものを演奏すると、腹は満たせない”という考えを共有していたことで、音楽的に固く結ばれていたのであった。

しかし14歳という若さでは心の感じるままに行動するもので、私は多くのバンドが演奏をしていた青年クラブをうろつくようになった。そういう場所はかなり恐かったが、同時にどこも信じられないくらいに人を引き付ける魅力を持っていた。そしてピアノ奏者やオルガン奏者はほとんどいなかった。これにはもちろん当然の理由があった。そういう場所で使えるオルガンはたったの2種類しかなく、1つはロールス・ロイス並のハモンド、そしてもう1つは中型乗用車フォード・グラナダ並みのヴォックス・コンチネンタルだったのだ。

バンドに入るためには、自分のオルガンを持っていなければならないことは分かっていた。 しかし上述の2つの車種は、どちらもどうあがいても買えるはずもなかった。そこでウールワース[訳者注:雑貨百貨店チェーン]が売りに出していた品に狙いを定めることにした。それはミニ鍵盤のリード楽器モデルでマウス・オルガンのような音がするので、バンドの中で使われると、グランドナショナル[訳者注:リヴァプール近郊のエイントリーで毎年行なわれる大障害競馬]に紛れ込んだダックスフントみたいなインパクトがあるのだ。とは言ってもつまり、金額的に狙えるものはそれしかなかったのだけど。一番小型のハモンドは1,000ポンドで、ヴォックス・コンチネンタルは600ポンド以上したのだから。ウールワース・スーパーデラックス・リード・オルガンは23ポンドだった。このオルガンには3つのねじ込み式の足が付いていた。まさにキーボードの“リライアント・ロビン”[訳者注:1973年にイギリスのリライアント・モーター・カンパニーから発売された三輪自動車]であった。

ロスマンズのキングザイズはもはや過去のものとなった。私は小遣いと両親のための雑用で得たお金をすべて貯め込んだ。今でもあの買物に行った土曜日のことは良く覚えている。必要な金額に10シリング(50ペンス)[訳者注:1971年の改正前は1ポンド=20シリング=240ペンスなので10シリングは120ペンス。改正後に市場に残っていた2シリング硬貨は10ペンスの価値で流通していたので、それを混同したものと思われる]足りなかったので、足りない分を十分補えるように1時間1/2クラウン(12と1/2ペンス)で、父の温室のペンキ塗りをすることが決まった。4時間の仕事を終えると、10シリングと貯めておいたお金をかき集めて、サドベリー・ヒルにあるウールワースへとオルガンを買いに出発した。面白いのは、父が1時間いくらで私に何か仕事を頼んだのは、この時が最後だったということだ;温室で作業した4時間で私は半分しかペンキを塗り終わらなかったのだが、それを目にして彼は大いに不満だったのだろうと思う。

買物に行って帰ってくると、私は手に入れたばかりの楽器に足をねじ込んでみた。すると2本目の足のネジ山をダメにしてしまったのだ。仕方なくマッチ棒を詰め込んで足を固定しようとしたのだが、その結果足はおかしな角度で広がったものの、オルガンをしっかりと支えてくれたのであった。

そこでコンセントにつなぎ電源を入れてみた。内部のファンの騒音が大きかった。楽器の音よりも大きいくらいだった。その上鍵盤を押し下げてから音が鳴るまでに遅れがあった。鍵盤はとても小さく、頑張っても1本の指で2つの鍵盤を押してしまいそうになるのだ。

それにもかかわらず、自分としてはもうバンドに入る準備が整った気になっていた。そして私の参加が必要だと勝手に思っていたバンドがあった ー  アトランティック・ブルースである。

アトランティック・ブルースは、私の両親の家の向いにあるシヴィル・ディフェンス・ホールで、私より3つ年上のケン・ホールデンという男によって結成されたバンドであった。ケンはドラマーで、彼のドラム・キットは少年隊[訳者注:1883 年に創設された少年のための組織; 従順・尊敬・自尊をモットーとする]からの借り物だけでできていた。

ベース奏者のデレクは別の地域の男で、ボーカルのポール・サットンは、ケンと私と一緒のファースト・ハロー少年隊のメンバーだった。バンドにはパートタイム・ギタリストのアラン・レアンダーもいて、彼の自慢は彼の姉がザ・フーのメンバーの1人を知っているということだった。このことは常にとても良いセールスポイントになっていて、間違いなく相手に強い印象を与えるのだった。

「何ていうバンドに入ってるんだい?」
「アトランティック・ブルースさ。」
「誰がいるんだ?」
「アラン・レアンダーがリード・ギタリストだよ。ヤツの姉貴はザ・フーのメンバーを知ってるんだぜ。」
「うわ、そりゃスゲェな。」

(最後の一言を聞いたらもう何も言う必要などなかった。私はただ訳知り顔でニヤリと微笑んで立ち去れば良かった。)

火曜日の夜は少年隊のメンバーが集まる日で、ケンはよく彼の父親の店モリス・イシスにいる私たちを車で拾うと、サウス・ハロー教会の集会へと届けてくれた。私が「バンドに入りたい」という件を口にしたのは、その帰り道でのことだった。

実に驚くほど簡単だった。ただ話そうという思いが会話の中で出て来るのを待つだけだった。

「今夜の練習は上手くいったな。」ケンは、二輪で角を曲がろうとしながら言った。
「そうだね。」ポールが言った。「もし今日のみんながまた来てくれたら、来週日曜のチャーチ・パレード[訳者注:礼拝への往復の軍隊の行進]も大にぎわいだよ。」
「オルガンを買ったんだ。」
歩道から車道へと車を戻しながら、ケンは車を縁石のところで止めた。
「本物か?」
「電気式のヤツさ。」
「バンドに入りたいのか?」
「まだ良く分からないな。バンドに入るってことは今まであんまり考えたことなかったし。まぁ良いよ、君が僕を説得しいのなら、試しにやってみるかな。」

私は最初のリハーサルにかなり早くに着いていた。開始の1時間くらい前だった。ケンが少年隊のドラムを、デレクがベースを持ってやって来た。彼らは期待通り私のオルガンに感動していた。でもまだその音は聴いていなかったが。

そしてアランが現れた。

「それは何だい?」
「僕のオルガンさ。」
「それってあの最低なウールワースのヤツだろ。聴けたもんじゃないぜ。さぁ、コンセント繋いで電源入れてみてよ。」

私はリクエスト通りにやってみた。ファンの音が巨大なシヴィル・ディフェンス・ホールの中で増幅されたようだった。

「じゃあ演奏してみて。」

どう考えてもがっかりするような音だった。出せる音の中で、遠くからならまあまあ聴けそうなものすら、1つもなかったのだ。

「そのオルガンと同じステージは立つのはお断りだね。」アランは断固たる調子で言った。

私は意気消沈した。今から思えば、それは的外れな言葉だった。と言うのはバンドはまだ結成してから公の場では一度も演奏したことがなかったし、バンド内部でちょっとやっかいな音楽的な問題を抱えていたから、その地域でできそうな見通しもなかったのだから。ケンはドラミングに関する困った問題を抱えていた:彼はテンポをキープすることができなかったのだ。デレクはベースのチューニングが良く分からなかったし、ポールは歌を歌ってもミック・ジャガー[訳者注:ローリング・ストーンズのボーカリスト]にはなれなかった。

私たちは腰を下ろし、現状を良く考えてみた。それは実質的に最初のバンド・ミーティングであった。

最初に検討したのは、私たちが今どんな機材を持っているかだった。
アンプ:3つのインプット端子付きVortexion100ワット・アンプ。1つは大音量で使用可能だが、残り2つは言わばほとんど聴こえない状態。アランが大音量端子につないで、デレクが聴こえない端子の片方に繋ぎ、もう片方にはマイクロフォンが繋がれていた。

だから極めてギター中心のバンドだったのだ。
そこでみんなで何が必要なのか話し合った。
まず第一にドラム。少年隊のドラムは役には立っていたが、所詮その場しのぎだった。でも本気でやるなら、ちゃんとしたドラムが必要だ。

私は率直に言った。
「ウールワースでオルガンを買った時、ドラムキットも売りに出ていたんだ。ギグスター・キットって名前で、49ポンドだった。」

ケンはロンドン交通局で見習いとして働いていた。そして実家で暮らしていたので、少しならお金を工面することができた。

「明日見に行ってみるよ。」彼は言った。
「機材の調達を始めて次に仕事がゲットできたら、ライトバンが必要になるな。」アランが言った。
確かに!さすがに姉貴がザ・フーのメンバーと知り合いな男の知識と経験は貴重である。

「探してみるよ。」ケンが言った。
 
私をバンドに入れるかどうかという件は、次の議題で取り上げられた。
 
「ポールも僕も歌わない時には、マイクはオルガンの通気口の上に置いておけば良いと思うんだ。」アランは続けた。「そうすれば何もしないよりはマシだろうしな。バンドが演奏するようなホールなら、ピアノを置いてるところはかなり多いと思う。それならマイクでオルガンの音を拾うよりずっと良いだろうし。」

するとポール・サットンが口を開いた。

「僕はもう歌いたくない。」

良くあることだ、そう私は思った。まだバンドに加入して30分ほどなのに、もうバンドは解散の危機に瀕している。

「僕はね」ポールが言った。「アランとリチャードが歌えば良いと思うんだ。」
「お前はどうするんだ?」ケンが尋ねる。
「僕はさ、マネージャーになりたい。」

私たちは全員感心してしまった。人気のあるバンドはどれも、大きな会社と有能なマネージャがついている。それなら僕らだって当然必要だろ?
  
私たちは新しく就任した有能なマネージャに、まだ将来が彼の手の中にあるとは言い難いこのスーパーバンドについての計画を聞いてみた。メンバーから注がれる熱い眼差しの中、彼はしばし考え込むと答えた:
「そうだな、すべては僕が来週どれだけ宿題を出されるかにかかっているな。」

続く2週間は大忙しだった。
まずケンはウールワースでギグスター・ドラム・キットを買った。それは本当に凄くて、ケンがバス・ドラムをキックすると、リムが円形から楕円形になりまた円形に戻るのだ。間違いなく素晴らしい楽器だった。

次にケンは貯めていたお金を全部つぎ込んで、スプリット・ウインドウ付きの1957年型ベッドフォード・バンを買った。サドベリー・タウンにあるU.C.スリム・モーターズで、税・保険全部込みの値段は35ポンドだった。 私たちはバンの車体の横に大きな字で“アトランティック・ブルース”と書いた。その文字は雨が降ったらとってもサイケデリックな感じになって、私たちを喜ばせてくれたのだった。

新しく手に入れたものが全部揃った後の、最初のリハーサルは凄かった。ケンはまだテンポが速くなってしまっていたが、少なくとも今はアランと音量の点で競っていた。お陰でデレクと私の音は聴こえなくなったが格好は整った。ボーカルはアンプが貧弱なため、歌うというよりは叫ぶといった感じだったが、全体として驚くべき一歩を踏み出していたのだった。

リハーサルが終わると、私たちはマネージャーに出演契約について聞いてみた。

マネージャーは、確かな交渉を1つ2つ行なっているところだけど、フランス語の宿題が追加されたから、うまくいくかどうかはまだはっきりしないと答えた。 

さらに6回ほどリハーサルが行われた後、ポールが誰もが待ち望んでいた話を持ってきた。

「ヘイズの近くのパブで、滞在中のフランスのバンドと共演するぞ。ギャラは無しだけど、もしそこのマネージャーに気に入られたら、ギャラと多分定職付きで出演契約してくれるかもしれない。」

私たちはリハーサルにリハーサルを重ね、ミスはまだあったけれど、自信満々に演奏できるまでになった。

そしてついにその素晴らしい日がやって来たのだ。私たちはパブの隣りのホールの外に車を付けた。横のドアを通り抜けて中に入ってみると、ステージはすでにフランスのバンドの機材で一杯であった。

「あんたたちは床にセットアップしてくれ。」声が響いた。
パブのマネージャーだった。
彼は私をすぐ間近で見ると言った。
「君は何歳だ?」

その時私はハッと気づいたのだ、自分が入店が許可される年齢よりも4歳ほど若かったことを。バスの低音域あたりまで声を低くしながら、可能な限りの自信をかき集めて私は答えた。

「26。」
「え?」
明らかにちょっとやり過ぎだった。
「ええと、26日で19歳になります。」
彼は首を振りながら立ち去っていった。

さらに私たちは次の危機への対処を迫られた。私のリード・オルガンが、ベッドフォード・バンに乗せられた最初の旅行で、悲惨なほどに壊れてしまったのだ。一個の楽器として無事に到着するハズだったが、実際に到着した時それは数個に分解されていたのだ。

「どんな具合だい?」私はケンに尋ねた。
「う〜ん、これは足の1つだと思うけど。」

バンドが私たちには打つ手のない絶望的な状況にあることは明らかだった。私は偉大なるバンドのデビューに何も演奏するものがないのだ。

私はホールの端に置かれているピアノに気づいた。そしてパブのマネージャーの後を走って追いかけて、それが使えるかどうか聞いてみた。

「使えるよ、でも動かすのは無理だろうな。」
「でもバンドがセッティングする場所からはホールの一番遠い端にあるんですよ。」
「そう、それならその端っこに行って単独で演奏するしかないだろうな。だろ?」

私はバンドのメンバー達がセッティングしている場所へ戻ると、彼らにマネージャーが言ったことを伝えた。私がピアノを弾くかやめるかの決断は、全員一致で私に委ねられた。

私はそのプラス面とマイナス面を計りに掛けた。まずマイナス面:まず私と残りのバンドメンバーとの間に、200人あまりの人間が挟まることになる。第二にバンドメンバーは私のことが見えないし音も聴こえない。第三に私も彼らが見えないし聴こえない。

プラス面に思いを巡らしたが、何もなかった。
私は演奏することに決めた。
私たちは7時半きっかりに始めて20分間演奏することになっていた。 ホールはほぼ満員で、ほとんどが10代の男であり、ほとんどがへべれけ状態であった。

ケンがスネアドラムを4回打ってカウントを取ることで、オープニング・ナンバーの“ジョニー B.グッド”を始める手はずだった。彼はそれを立派にやってのけた。そしてかなりふらふらでぼんやりしている聴衆に向けて、ホールの両端から演奏を始めたのである。思うに、恐らくこれこそが最初のステレオ演奏だったんじゃないだろうか。

しかし残念なことに聴衆達は自分たちが目の当たりにしているこの重大な出来事を理解することなく、多分全員でケンカする方がもっと面白いと心に決めたようだった。

たまたまそれはひどいケンカ騒ぎになってしまった。その予定外の“イベント”に参加した者は明らかに誰も、パブのマネージャーに一言も断わっていなかった。5分もしないうちにピアノはホールの反対側へ運ばれた。でもまぁケンのギグスター・ドラム・キットの大半が私の方へと運ばれてきたのでバランスは取れていたのだが。

このようなことはもっと弱々しいバンドであったら弔いの鐘を響かせる結果になっていたであろうが、一週間も経たないうちに私たちは元気を取り戻した。ケンが私たちの定職を確保したという素晴らしいニュースを持ってきてくれたのだ。

彼は細かな部分はあまり話さなかったが、 私たちが演奏できる唯一のバンドで、お金は支払えないがサンドイッチと飲み物が保証されるということだった。

木曜日になり、ついに私たちはバンにすべてを積み込んだ。ギグスター・キットは張合わされ可能な限りの修理がなされていた。そして自信はさらに高まっていた。ケンは演奏会のことは依然として曖昧であった。しかし私たちは彼から、観客は10代中心で場所はロンドン北のネースデンにあるクラブだということを聞き出していた。

私たちがネースデン・ハイ・ロードに入ると、道の真ん中で見えないホッピング[訳者注:飛び跳ねて遊ぶばねつきの1本棒]に乗っているかのように飛び跳ねている1人の男と出くわした。

「危ない、」デレクが叫んだ。「道のど真ん中でイカレタやつが走り回ってるぞ。」
「気をつけて彼のそばを通り過ぎよう。」私が勧めた。
「ひいちゃえ。」アランが言った。
ケンはこうした3つの提案のどれにも従わなかった。驚いたことに彼はこの明らかな自殺狂の横で車を止めウインドウを開けた。

「やあ、エリック、」彼は言った。「バンドの連中を連れてきたぜ。」

エリックは道路の真ん中から走り去ると、100ヤードほど先にある開け放たれた入口に入っていった。 ケンはバンを器用に運転して、エリックの正面衝突を避けただけでなく、なんと彼が入った同じ入口へと車を入れたのだった。

20秒後にはバンは、50人ほどのダウン症の若者達に完全に取り囲まれていた。

「ケン! ここはどこなんだ、ケン?」私はささやくように聞いた。
「外に出たくないよ。」デレクが加わった。
「僕はこんなところとは無関係だ。」我らがマネージャも加わった。

アランはすぐ分かるような暴力的な性格は一度も見せたことはなかったが、 この時はたまりかねて荒々しくケンから離れた。そして私たちは後部座席でバンド・ミーティングを始めたのだった。

ミーティングと言っても実際のところ確たる中味はなかった。怒鳴り合いと変わらなかった。いずれにしてもそれは、かなり大柄な女性がフロントガラスをドンドンと叩いた瞬間に終った。
ケンは自分の側のウインドウを開けた。
 
「楽器を運び込むのにお手伝いが必要かしら?」 彼女は丁寧に質問した。「子どもたちがあなたたちの演奏をとても心待ちにしているものだから。」
「もう到着してますから、もう演奏始めているも同然ですよ。」ケンは言った。「さてと、僕は前にここに来たことがあるんだ。子どもらは本当に人なつこいんだよ。」

私はベッドフォードのホイールキャップで円盤投げを楽しんでいる、人なつこい子どもらを見た。

「ここにはピアノもあるんだぜ。」

その言葉が決定打となった。
私たちは恐る恐る機材のセットアップを始めた。子どもたちはとても知りたがりで、たくさんの質問をしてきたのだが、正直なところみんな上手く話せないため理解するのが難しかった。運良くバンのフロントガラスを叩いた女性が“通訳”してくれて、次第に結びつきが生まれていったのだった。

ピアノはホールの向こう端にあった(まったく私とピアノの関係はどうなっているんだ?)。それは古くてとても大きなアップライト型で、巨大な鉄の枠が付いていて車輪がなかった。私たち4人掛かりで数フィートしか動かせなかった。

バンのフロントガラスを叩いた女性が、また助けにきてくれた。
「ロイが動かしてくれるわ。」
私たちが振り向くと巨大な影が近づいて来て、私たち4人とピアノがある場所全体が暗くなった。

私たちは一斉にロイを見上げた。ロイは巨大だった。ロイの前では平均的なヘビー級レスラーも細く見えただろう。

「ロイにピアノをどこへ運んで欲しいのかしら?」
私たちはもう一度ロイを見た。
「彼が持って行きたい場所ならどこでも。」私はそう言った。回りの仲間もそれで良いとうなずいていた。

ロイは私たちが何も言わなくてもどうしたいかが分かっているようだった。そして苦もなくピアノを持ち上げると、他の機材がセットアップされている場所へと持って行ったのだった。

「ありがとう」私が言うとロイは微笑んで、私のところまで歩いて来て私を抱きしめた。彼は間違いなく私の身体中の骨をへし折ることができたが、とても優しくそして人なつこく私を抱きしめてくれたのだった。私は周りを見回した。どの子も微笑んでいた。ただ周りに立って、微笑んでいた。

「みんな、あなたたちが演奏を始めるのを待っているんですよ。」フロントガラスの女性が言った。アラン・レアンダーが“ハイヒールド・スニーカーズ”のイントロを演奏し始め、私たちはそれに加わった。ケンは自分の好みのテンポで素早くドラム・ソロに入った。私はすぐにピアノがひどく調子外れなことがわかったし、デレクは彼のベースギターが全然音が出ていないことに気づいた。私は周りを見回した。すると子どもたち全員が踊っているのに唖然とした。みんなこの演奏を気に入ってくれていたのだ。その曲が最後ゆっくりと終ると、まるで私たちがローリング・ストーンズでもあるかのように、全員が拍手喝采してくれたのだった。

私たちはその後の半年間、毎週木曜日になるとそこで演奏をした。そしてメンバー全員が、子どもたちのことを好きになり理解し友達になった。それは間違いなく私の経歴において、最高の時期の1つであり続けるだろうと思う。

アラン・レアンダーはダンス・バンド・トリオにも参加していて、結婚式や催し物や、時には労働者クラブなどで演奏していた。数週間後彼は私に、そんなバンドに加わる気はないかと尋ねてきた。「お金になる仕事だ」彼は私に言った。「サウス・ハローにあるタイス・ファーム・クラブまで、バーニー・ヴィックに会いに来ないか。僕が話しておくから。」

バーニー・ヴィックは多くのダンス・バンドで働いていた、地元ではとても評判の良いドラマーだった。彼が多くの仕事をこなし多くのギャラをもらっていることは知っていた。これは考えられる最高のバンドだった。ぜひ入りたかった。

私はサウス・ハローまで自転車で行き、7時半の待ち合わせの数分前に到着した。そしてサロン・バーに入るとラガービールを半パイント[訳者注:1パイント=568cc]注文した。

「その前に年齢は?」
人生におけるある種の事柄は少しばかり単調になり始めた。
私はカウンターパンチを食らわすことにした。
「僕は7時半にここでバーニー・ヴィックに会うことになっているんだ。」
バーテンダーは戸惑ったような表情を見せたが、バーニーの名前は効果があったようで、彼は私にビールを出してきた。私はビール片手にバーを出ると、私が通っていたドレイトン・マナー・カントリー・グラマー・スクールの歴史の先生に瓜二つの男と鉢合わせした。

「信じられない!」
「何がだい?」彼は軽く返してきた。
「あなたは僕の学校の先生にそっくりだ。」
「その先生の名前は?」
「クロー先生。でもリトル・ヒットラーって呼ばれてる。」
2人は笑い合った。
「今何年生なの?」
私は彼に近づき、バーテンダーには聞こえないことを確かめると、意味ありげにニヤリとしながら答えた。
「4年生。」
彼はクスっと笑った。
「君の名前は?」
「リチャード・ウェイクマン。」
私は友好の証として手を差し伸べた。彼はその手を取って心を込めて握手をしながら言った。 
「僕はリトル・ヒットラーだ。明日の朝、集会の後に会おう。」

彼は向こうを向くとパブから出て行った。それとほぼ同時にアランとバーニーが入ってきた。

「随分前から来てたのか?」アランが尋ねた。
「相当前からね。」私は答えた。
彼は困惑したようだったが、この件で質問を続けない方が良いと思ったようだった。

「こちらがバーニー・ヴィックさんだ。」

私はその背が高く痩せていて話し方の穏やかな男と握手した。 そして私に向けた最初の言葉が発せられた瞬間に、彼のことが好きになった。

「リック、何を飲むかな?」 

バーにはかなり大きな宴会場があって、バーニーは私たちがそこを使って、私がピアノを弾けるようにしておいてくれた。 ちょっとしたオーディションだったと思う。

幸運なことに私は父の音楽はどれも演奏できたし、かなりの数のスタンダード・ナンバーも習得していた。それはバーニーに良い印象を与えたようで、次の土曜日は空いているか聞いてきた。私はじっくり考えたふりをしながら素早く頭の中の予定表をチェックし、無意識のうちに今年はすべての土曜日が空いていることを自分に納得させて、間違いなく大丈夫だと答えた。 

「そりゃ良かった、」バーニーは言った。「ウイークデイに僕の家でリハーサルをやって、土曜日のアーリング・ソーシャル・クラブでのライヴの準備をしよう。あそこにはとても良いピアノがあるんだ。あぁ、ところで、1人3ポンドずつだけど、それで良いかな?」

口がきけないほどのショックだった。3ポンドなんて大金である。1964年当時、3ポンドあればガソリン14ガロン[訳者注:1ガロン=4、546リットル]でも、ロスマンズのキング・サイズを300個でも、お好みとあらばビタービールを35杯でも、手に入れることができたのだ。

この世に心配事は一つもないし視界をさえぎるものもない、そう思いながら私は自転車で家に戻った。ほろ酔い気分でもあったと思う。間違いなくセミ・プロ・ミュージシャンの世界に足を踏み入れたのであった。


※訳者注:章タイトルの「Band of Hope」は“少年禁酒団”の意味もある