2013/02/16

3 バラはどんな名前で呼んでも

数週間経つうちに、私は地元で定期的に働くミュージシャンの中で、自分の地位を確立することができた。ロックンロールの演奏をしていたことが多かったと思うが、すでに週6ポンドを稼ぐ身であり、その貯金を元にホーナー・ピアネットとヴォックスのAC30アンプを購入した。

悲しいけれどアトランティック・ブルースは、ネースデン・クラブの主役の座以上に進展する可能性がないことが分かり始めた。ちょうどその頃アラン・レアンダーがバンドを去った。私もそうしようと決心した。バンドが遅かれ早かれ解散するのは避けられないことだったのだ。なぜなら特にケンが、彼の人生において別のものに気を取られるようになったからである。その中で一番だったのはダフニという名前で、彼が数年後に結婚する相手であった!

ネースデンでの最後の演奏はとても思いで深いものとなった。その場所で私たちに代わって演奏することになったのは地元の救世軍ブラスバンドだった[訳者注:救世軍とはイギリスに本部を置き、現在、世界124の国と地域で活動する国際的なキリスト教プロテスタントの団体]。私たちが最初の1時間演奏し、交代した救世軍バンドが残りの1時間を演奏した。 私たちは“ウォーキング・ザ・ドッグ”を皮切りに一連の12小節ブルースを披露した。子どもたちは部屋を踊り回り、歓声を上げ続けた。

私たちが全曲演奏し終えると、救世軍バンドが“オンワード・クリスチャン・ソルジャーズ”で幕を開け、続いて聖歌を何曲も演奏した。子どもたちは部屋を踊り回り、何度も歓声を上げた。

その時私たちは悟ったのだ。音楽で成功することは難しいと。

救世軍バンドのトランペット奏者の1人は、西インド諸島出身の才能ある若者で、私たちはその夜会が終了してから話をした。

「僕はロック・バンドでトランペットと歌をやってみたいんだ。」彼は言った。「君らのバンドに入れてくれないかな?」
「う〜ん、僕らはもう解散するつもりなんだ。」僕は言った。
彼はがっかりしたようだった。
「だけど、僕は自分のバンドを作ろうと思ってるんだ。」
電話番号を交換し、 私たちはそれぞれの道を歩むことにした。

バーニー・ヴィックス・バンドでのライヴは定期的に続けられた。その頃には自分たちのことをコンコード・カルテットと呼ぶようになっていて、地元の催し物には引っ張りだこだった。ある日、バーニーの家で私はテリー・ベレスフォードという名前のクラリネット奏者を紹介された。彼はそれまでブーズィー・アンド・ホークスで働いていた。テリーは自由契約で多くの地元のダンスバンドと仕事をしていたが、練習のためにバーニーの家にやってきたのだった。

彼はアルパートンに建てられる予定の新しい労働者クラブでも出演を要請されていた。そこでは4人組のバンドを欲しがっていて、テリーはそのバンドを探す仕事も請け負っていた。

賢明にも彼は、一緒に出演するバンドを見つけて、彼自身がそのメンバーになれば、ものごとはとてもスッキリすると考えた。唯一の問題はバーニーのバンドがすでに4人組だったということだった:私、ドラムスのバーニー、そしてアラン・レアンダーとジム・ベネットという2人のギタリストだ。

この問題はバーニーによってあっさり片付けられた。アランがミーティングに遅刻し、彼が現れるまでにもうバンドからの解雇が決まってしまったのだ。その時からずっと私は、どんなバンドのミーティングであっても遅刻はするまいと心に決めている。

アルパートン・ソーシャル・クラブの仕事はとても面白かった。私が酒の訓練を受けたのもその場所だった。そしてほぼ2年間、毎週末私はそこで働いたのだった。

数ヶ月後、ジムとバーニーが意見の相違からテリーの元を去った。代わりに入ってきたのがドラマーのグラハム・チューナーで、彼の自慢は右手に親指が2本ある祖母がいるということだった。もう1人は私のいとこのアランで、サックスでの参加だった。

私はすでに17歳になっていて最初の車を買っていた。1957年型100Eフォード・アングリアだ。床板は無かったが、見事に役に立ってくれた。1966年当時は車の検査などというものはなく、当時往来を通っていた車の80%は恐らく車検に引っかかっていただろう。私のアングリアも楽勝でその1台だった。前部には4つの4×2インチの厚板がフットレストとして備わっていたが、サビのひどさに匹敵するほどの虫食い状態と腐敗が進行していた。

しかし、私は車の運転が好きだったので、自分で検査するためにノーソルトにあるA40に向った。そこには地元の若者がスピードテストを行なう直線道路があった。目的地のパブの駐車場で準備を行なった。そのパブの中で準備の準備も行なった。

ついに私たちが私のアングリアの真の実力を見極める、偉大なる瞬間がやってきた。極度に緊張しながら、私は駐車場から車を出した。横にはケン・ホールデン、後部座席にはピートとコリン・スピアーズという2人の友達が座っていた。床が無かったのでピートとコリンは前のドア・ウインドウから足を外に投出していた。

私は時速30マイル以上を出したことが無かったので、とても神経質になっていた。

ガタガタと音を響かせながらギアをトップ(サード)に入れ、アクセルを強く踏み込んだ。時速25マイルを記録したあたりでハンドルがひどくバランスを失って、猛烈にがたついた。汗が首筋をつたい落ちた。

スピード・テストの終了地点は、ノースホルト空軍基地の入口近くであった。ここからなら次の信号まで約1/2マイルを使って車を停止することができた。

空軍基地に近づいた時、排気装置が壊れ耳をつんざくような騒音が鳴り出した。排気ガスが床から吹き出し、ハンドルの振動は抑え切れないくらいになった。ピートとコリンは一言も口をきかなくなった。

「そのまま進め!」ケンが叫んだ。「もう、すぐそこだぞ!」
「今どのくらいのスピードだ?」私は叫び返した。
「時速33マイル!」

空軍基地の入口を通り過ぎたので、ブレーキ・ペダルを踏み込んだ。後輪がロックされ車は優雅なカーブを描いて横に滑り始めた。車は止まるはずの信号に向って進んでいた。車の列が目前に迫ってきた。

「まずい!」ケンが言った。
「ブレーキはちょっと調整しなきゃだと思うよ。」コリンが言った。
「戻って排気管を拾って来るっていうのはどう?」ピートが聞いた。
「車をあの待避所に寄せて、運転免許証と保険証を見せてもらおうか。」警察官が言った。

車を隅から隅まで検査した後に、その素敵な警察官は、ナンバープレイトは恐らく大丈夫だが、金属部分や部品、そしてその間に見られるサビはまず間違いなく手の施しようが無いだろうと教えてくれた。

公平に見ても彼は正しかった。アングリアはその後数ヶ月しかもたず、その間も次第に予測不能で信頼できない状態になっていったのだった。父は美しいスタンダード・エンサインを持っていて、親切にもアングリアの行儀が悪い時には、ライヴに行くのにその車を貸してくれた。(今でもドレイトン・マナーに残っている教員の間では、伝説として語り継がれている)“校内コンサートと校長のバラ園”事件が起ったのも、このような“車を借りた”時のことだった。

当時私がバンドで演奏していることは学校でも良く知られていた。もっともどんなバンドなのかは実は明らかにはしていなかったのだ。一般的な印象としては、コンコード・カルテットはロック・バンドだというものだった。どうしてわざわざ私がそれを打ち消す必要があったろうか?

すると学校のダンス委員会の委員長ジョン・ラルフと副校長のライト先生が声をかけてきた。

「ウェイクマン君、」ライト先生が言った。「知っての通り、学校のダンスパーティーがもう目前なんだが、今年はレコードをかけるだけじゃなくてライヴ・バンドも出演するというのが良いんじゃないかと思っているんだよ。ジョンが言うには、君のバンドはとっても成功しているそうじゃないか。それなら君たちが来てくれるかどうか聞いてみるのも悪くないと思ったんだ。もちろん報酬は出すよ、確かバンドの何人かはプロだったよね。ダンスパーティー基金はそのために35ポンド用意しているんだ。」

私は卒倒しそうになった。35ポンドは疑う余地のない一財産である。私は頭の中で素早くプラス面とマイナス面を天秤にかけた。まずはマイナス面:コンドードは完全に不向きなバンドだった。6年生がホーキーコーキー・ダンスや“ニーズ・アップ、マザー・ブラウン”などに夢中になるとは思えなかった。ということは私には紹介できるバンドはないということだ。さて今度はプラス面:確実なライヴと35ポンドの報酬である。

「仲間を説得できると思います、」私は自信たっぷりにそう言った。「僕らは普通は学校のダンスパーティーでは演奏しないんです。でも今回だけってことで彼らを説得できると思います。」
「それで話は決まりだね、」ライト先生はそう言って立ち去っていった。

その話は山火事のように学校中に広まった。毎日空いている時間が1分でもあれば、私はバンドについての質問に答えなければならなかった。そして何が起っているかわからないうちに、“ジョンが黒犬を飼い始めた”現象が広まり始めたのだった。

“ジョンが黒犬を飼い始めた”現象は広まり始めると悪夢であった。最初はフレッドがビルに、ジョンが黒犬を飼い始めたと言うところから始まる。するとビルはテリーに、ジョンが巨大な黒犬に咬まれたと言う。テリーはハリーにジョンは巨大な黒犬に咬まれ、食われちまったと言う。そんな感じで話は広まっていく。


終末までに私のバンドはその偉大さにおいてローリング・ストーンズに次いで第2位の地位を得ており、アメリカの巨大レコード会社とレコーディングの契約をもうすぐすることになっていた。さらにバンドの歌手として有名なアメリカ人のソウル・シンガーがニューヨークからやってくるらしかった。このライヴのために特別に飛行機で来るのだという。

ダンスパーティーまであと2週間と迫った頃、出演できるのは私自身と、私のホーナー・ピアネットと、ヴォックスAC30アンプと、どうしようもないほど大きな苦悩だけであった。

私はバンドメンバーをかき集めるために、テリー・ベレスフォード式の自由契約でやろうと決心した。私は偉大なる友、トレヴァー・アルヴィに連絡を取った。彼はハローの地元のロックバンドでリズム・ギターを弾いていた。私は彼のバンドと、彼らの機材を確認するためのリハーサル日も含めて、15ポンドで出演契約を結んだ。私は彼らに、このライヴだけは違ったバンド名、“カードルド・ミルク(固まった牛乳)”で演奏しなければならないと説明した。(この名前は副校長からバンドの名前とクリームの曲もやるのかと聞かれた時に即座に浮かんだものだった。)

状況は好転した。バンドはかたちになったし20ポンドをすでに手にしていた。あと必要なのはニューヨークからやってくる黒人のアメリカ人ソウル・シンガーだけだった。

電話帳をめくっていると次善の策が浮かんだ。

西インド諸島出身でネースデンにいる救世軍のトランペット奏者だ。私は彼に電話をかけ状況を説明した。彼は興味を持ってくれた。特に3ポンドという報酬に。唯一の問題は彼がリハーサルに出られないということだった。しかし彼は演奏曲目に入っている“ジョニー B. グッド”と“マイ・ベイブ”を良く知っていた。

彼がたった2曲しか歌わないという理由さえ見つけられれば、もう問題はないと言えた。

リハーサルはとても上手くいった。私が“加わった”バンドは実際とても素晴らしかった。バンドなら大抵演奏する、必須の12小節ブルースはすべて知っていたし、曲の開始も終了もきれいに揃っていた。何人かはかなりの長髪だったけど、それはオマケだ。

ダンスパーティーの日がやって来た。チケットの売れ行きは上々で学校始まって以来初めてその地域の他校でも売られたのだった。満員は確実だった。すでに私のバンドは大きなレコード契約を結んでおり、大規模なアメリカ・ツアーの交渉に入るところであり、サポートバンドはザ・フーを予定してることになっていた。

公の場でまだ1音も演奏していないバンドにもかかわらず、カードルド・ミルクは今や西ロンドンでは最も有名な名前となっていた。そして私は17ポンドの純益を得る寸前であった。
 
私は思った。誰が上級評価を必要としているって?

アングリアは動こうとしなかったので、寛大な父のおかげで、私はピアネットとアンプを彼のスタンダード・エンサインに積み込んで学校へと出発した。途中でトレヴァー・アルヴィーと他のメンバー数人を拾っていった。時間があったので、ちょっと一杯ひっかけようとハンウェルにあるホワイト・ハートの立ち寄った。

ちょっと一杯はちょっとした飲み会になり、学校の門をくぐる頃にはみんな頭がクラクラしていた。校庭を横切ったところでサイドブレーキを引こうとしたが、横滑りして完全に制御不能となり、校長の見事なバラ園に突っ込み、スタンダード・エンサインはそこでやっと止まったのだった。

外はかなり暗く時間がかなり差し迫っていたので、私たちは車に積んであった機材を下ろし、それを大ホールへと運んでセットアップを始めた。副校長はすでにそこにいて、いたく感動しているようだった。

「ウェイクマン君、もう学校の時間外だから」彼は言った。「校長の駐車スペースに車を停めても良いですよ。」

「もう彼が停めてきました。」トレヴァーが言った。
私は彼をにらみつけた。
「そうですか。それなら結構。」
彼は立ち去った。

「わかりっこないよ、」トレヴァーが言った。「校長のバラ園に何が起ったか気づくずっと前に、僕らは荷造りして消えちゃうんだから。」

私は確信は持てなかった。でも頭は今すぐにも始まるはずのダンスの方に切り替わっていた。ライト先生が事前に、会を始めるにあたって短い言葉を述べたいと言っていたのだ。彼はマイクに向って歩いていた。

「こんにちは、みなさん。」
彼の言葉に会場は静まり返った。
「ここで述べたいのは、今夜は楽しんで欲しいということ、そしてきちんとした紳士と淑女として振る舞って欲しいということだけです。抱擁しながらのキスはダメです。それからダンスパーティーが終る10時まではホールから帰ってはいけません。では、カードル・ミルクの出番です。」

私たちはいきなり“ホール・ロッタ・シェイキン”を始めた。すぐにこの夜は上手くいくことがはっきり分かった。最初の曲を終えると私はマイクのところまで歩いていった。「やぁ、みんな。」
大歓声が返ってきた。
「みんな知っているように、今夜はアメリカから特別なソウル・シンガーが駆けつけてくれてるんだ。彼はこの建物にはいるんだけど、分かってもらえるよね、彼は長旅でとても疲れているんだ。」(事実も一部含まれていたのだ。というのは彼を乗せたバスがネースデン・ハイ・ロードを出発するのがかなり遅れていたのだ。)「今彼は楽屋で元気回復中だから、今宵の最後なら一緒にやれるはずだよ。」

この説明は賛同と理解のうなずきを得ることができた。ダンスは9時頃に一度中断を挟んだだけで続けられた。
私たちがちょうど“ノット・フェイド・アウェイ”を終えて、“ペギー・スー”を始めようとした時だった。ライト先生が舞台に現れた。
彼は私の方に向って歩いてきた。

「ウェイクマン君、誠に申し訳ないが大事な話をしなければならないんだ。」
彼はマイクのところへ歩み寄った。
「こんな素晴らしい夜に水を差すのは誠に申し訳ないと思いますが、相変わらず他の誰かのすべてを台無しにしたい者というのが常にいるものです。だからこの件が満足行くかたちで解決するまではダンスパーティーは続けられません。」
会場からは不満の声。
彼は続けた。
「どこかの愚かで思慮に欠けるイカレタ人間が、校長の見事なバラ園に車で入り込み、メチャクチャにしてしまいました。」
大きな笑い声。
「これは笑い事ではありません。犯人はずうずうしくもバラ園に車を乗り捨てていきました。」
さらに笑い声。
「この恥ずべき行為の犯人が今すぐ名乗り出ないなら、今ここでダンスパーティーは取りやめにします。」

私はホーナー・ピアネットの後ろでゆっくりと立ち上がると、ライト先生のところへ行った。

「 えーと、すみません、先生。」
「ウェイクマン君、後にしてくれないか。君もとても残念だとは思うが、私は真相を探らなければならないのだ。」
彼は再びマイクに向った。
「誰であろうとも、これが最後のチャンスです。 車のナンバーはBFJ 974。」

私は再度前に出た。
「座っていなさい、ウェイクマン君!」彼は怒鳴った。
「僕の車です!」私は怒鳴り返した。
彼は唖然とした表情で私を見た。
「事故だったんです、先生。本当なんです。」
彼は向き直ると私を正視した。
「そうか、君の愚かな行為でダンスパーティーが代償を払うというのは公平ではないな。君の処分は明日の集会後にしよう。」

そのことでその夜の輝きがかなり薄れてしまったが、私たちはすぐに予定された進行に戻った。

9時半になり私は切り札を切った。
「さてみなさん。ニューヨークからやって来た最高の歌手、ソウル・マン・ウェスリーの登場です!」
会場は熱狂した。
ついでに言うならウェスリーもまたそうだった。彼はとても素晴らしかった。舞台の上から下へと格好をつけながら歩き回り、会場を回り大げさな身振りをしながら2曲のパーティーソングを歌った。その夜は大盛況に包まれた。

しかしながら校長のバラ園でギアをバックに入れた時、胸がひどく痛んだ。かなりの数のバラが今やスタンダード・エンサインのフロント・グリル[訳者注:自動車のエンジンの放熱格子]に絡み付いていた。そして暗闇でさえ、その花壇は絶望的な状態であることがわかった。

翌日の朝会後、私は校長室に呼ばれた。今日に至るまで、如何に1人の人間があれほどバラに情熱を傾けられるのか、まだ十分には理解できていない。不運にも私の責任で起きた大虐殺現場を見に連れられて行った時など、彼は本当に泣いていたのだった。

あれは本当に事故だったんですと、謝罪と嘆願の言葉を幾度となく繰り返しつぶやいても、減刑になることはなかった。

「ウェイクマン君、代償を支払ってもらうよ。」
「わかりました、先生。」
「庭師に見積もりを出してもらった。25ポンド君に請求する。」
「先生、25ポンドなんて持っていません。」
「それなら君のご両親に手紙を書かねばならんだろう。」
「先生、どれくらい待ってもらえるんですか?」
「待ちはしない。今すぐ支払いなさい。」

ライト先生が割って入った。
「先生、私は学校のダンスパーティーで演奏してくれた彼のバンドのために、彼に渡す35ポンドが入った封筒を今持っています。そこから25ポンドを取って、残りをウェイクマン君に渡すというのはいかがでしょう?」
「それは良い。ウェイクマン君、異議はないね?」
「えぇと、先生、それだとバンドに支払うだけのお金が残りません。」
彼らは私を見ていた。
「でも、こういう状況ならそれがベストだと思います、多分。」 
「これで決まりですね。」

私は新たな問題を抱えながら校長室を出た ー 手元に10ポンドしかないのに、どうやってバンドに15ポンドとネースデンから来たソウル・シンガーに3ポンド払おうか。この問題はウェスリーに3ポンド、バンドに7ポンド支払うことで解決した。私は続く2週間のコンコード・カルテットでの稼ぎから、残りの8ポンドを支払ったのだった。

その後カードルド・ミルクは2度とステージに立たなかったと言う。

 
※訳者注:タイトルの「A rose by any other name」はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に出てくる表現「A rose by any other name would smell as sweet.」(バラはどんな名前で呼んでもよい香りがする)から取られている。これは、大切なのは表面的なことではなく内面であるということを示す言葉。